毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

臆病者の自転車生活

2024年04月29日 11時46分30秒 | 読書

 安達茉莉子「臆病者の自転車生活」

 このブログで時々サイクリングのことを書かせていただいているのですが、実はわたくし、40になるまで一切運動をしたことがない超インドア人間でありました。山登るとか、前世でどんな悪事を働いたらそんな目にあうんだろう、などと思っておりました。

 そんな人間ですが、ある時荒川サイクリングロードなるものを知り、そこから自転車に夢中。それまで思ってもみなかったいろんな思い出とともに生きることができました。自転車を知らなかったら味わえなかった感情、思考、それから努力したわけではないのですが、15kgの減量。自転車に人生を豊かにしてもらいました。

 著者も同じような状態で自転車と出会ったのでした。

心に怯えた犬を飼った臆病者でも、自転車に乗れたし、むしろそんな人をこそ軽々と遠くに連れていってくれるのが自転車だ。生活の足にするだけではなく、自分の足で遠くまで行く喜びに気づかせてくれる」

 電動アシスト自転車を手に入れた著者は、自転車とともになにかに目覚め、すぐにロードバイクが欲しくなる。わかる! ぼくも安価な自転車を購入したあと、すぐにロードバイクが欲しくなり、財布をはたいたのでありました。

 

「自転車を好きになって、私の生活は大きく変わった。空気の層や風、地面の衝撃を感じながら道の上を走り、海の横を流れるように並走する。自分の体でこんなに遠くまで来たんだ、という感覚。体力のない私でも、自転車ならそれが叶う。そして何より、自転車に乗るのは気持ちいい。それ自体が喜びなのだ」

 自転車に夢中になった者が味わえる感覚が素敵に表現されています。何度も何度も頷きながら読み進んだものです。

 

「自転車を通して、私は世界に恋をしている」

 自転車を漕いで出会った様々な美しい景色を思い出しつつ、深く感じ入るのです。大きく開けた田畑、鴻巣のポピー畑、爽やかな風に身を包みながら空と水の青さに心ときめかせた霞ヶ浦、寒さに震えながら下った峠、楽しかったことも美しかったことも辛かったことも、全部自転車が与えてくれた思い出です。

 

どこまでも行ける。

 どこにだって行ける。

 自由だ、という気がした。

 この自由を味わうために走るのだ、きっと。

 

 走りたいと思ったとき、すべてが変わっていったのだった」

さあ、一緒に走り出しませんか。

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ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」

2018年08月09日 19時52分58秒 | 読書


 カンブリア紀に堂々たる存在感を現した、たとえばアノマロカリスなどに比べれば私たちの祖先の脊索動物ピカイアはあまりにもひ弱だった。ひ弱なピカイア以後、脊索動物は強力な捕食者から逃げ回りつつ、劇的な進化を遂げて人類にたどり着いた。では、その人類は最初から堂々たる存在だったのか。否、と著者は言う。「100万年前に生きていた人類は、脳が大きく、鋭く尖った石器を使っていたにもかかわらず、たえず捕食者を恐れて暮らし、大きな獲物を狩ることは稀で、主に植物を集め、昆虫を捕まえ、小さな動物を追い求め、他のもっと強力な肉食獣が後に残した死肉を食らっていた」

 そうした人類がホモ・サピエンスへ変遷したところで肉体的にどれだけの明確な差異が生まれたであろうか。また、それ以上に大きな脳をもつことは生存に不利な状況も生み出す。たった体重の2~3%の重量の脳はじっとしているとき、身体の消費エネルギーの25%を使ってしまう。ヒト以外の霊長類の実に3倍の消費量だ。いわば、ヒトは筋肉に費やすエネルギーを神経細胞に回した。だから、「チンパンジーはホモ・サピエンスを言い負かすことはできないが、縫いぐるみの人形のように引き裂くことができる」

 そのような存在だったホモ・サピエンスがどうやって万物の霊長を自称するようにまで至ったのか、それをこの書では3つの大きな革命として説明する。すなわち、認知革命、農業革命、それから科学革命。

 認知革命によってわれわれは共通のストーリーに基づいて行動するようになり、同じストーリーに基づいた団体行動が可能になった。このストーリーはしばしば「神話」と呼ばれる。

「人間どうしの大規模な協力は神話に基づいているので、人々の協力の仕方は、その神話を変えること、つまり別の物語を語ることによって、変更可能なのだ」

 ネアンデルタール人がついに手にすることのなかった「神話」によってホモ・サピエンスの活動は飛躍的に拡大する。まさに、「認知革命は歴史が生物学から独立を宣言した時点だ」った。

 ネアンデルタール人からホモ・サピエンスへ。そして、狩猟採集民から農耕民へ、農業革命は歴史の授業では進化として教えられている。しかし、果たしてそうであっただろうか。

「古代の骨格を調べると、農耕への移行のせいで、椎間板ヘルニアや関節炎、ヘルニアといった、実に多くの疾患がもたらされたことがわかる」
「穀類に基づく食事は、ミネラルとビタミンに乏しく、消化しにくく、歯や歯肉に非常に悪い」
「食料の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いていたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた」
「以前より劣悪な条件下であってもより多くの人を生かしておく能力こそが農業革命の神髄だ」
 結局のところ、「農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ」
 農業革命で得られたものは、個人の生活水準の向上ではなく、より多くの人を生かしておくこと、人口増加、要するに「ホモ・サピエンスのゲノムの複製の数を」増やすことだった。重ねて著者は言う。「農業革命は罠だったのだ」

 今日私たちの世界を覆うグローバリゼーションのもとになった3つの普遍的秩序も実は紀元前1000年紀に誕生していた、と著者は言う。1つ目の普遍的秩序は経済的なもので、「貨幣」という秩序。2つ目は政治的なもので、「帝国」という秩序。3つ目が宗教的なもので、「普遍的宗教」という秩序だった。これら3つのものは本来異質であるものを等しい価値観で結びつけるものだ。「あれほどアメリカの文化や宗教や政治を憎んでいたウサマ・ビンラディンでさえ、アメリカのドルは大好きだった」から、「貨幣のおかげで、見ず知らずで信頼し合っていない人どうしでも、効果的に協力できる」のだ。

 この3つの普遍的秩序が結果的に推し進めることになったのが科学革命であった。科学的知識の獲得には費用がかかる。これを支えたのが、帝国主義と資本主義であり、それぞれの互恵がループをなして互いに強め合い、そうして現代が誕生した。

 私たちの歩みを俯瞰して、その歩みを相対化することで多角的な視点を与えてくれる、暑さでだれる脳みそにぴりっと刺激的な著作でありました。
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吉村生×高山英男「暗渠マニアック」

2015年07月16日 18時14分18秒 | 読書
 川の汚染や自動車社会からの要請などさまざまな要因で、多くの川が蓋をされ見えない地下を流れている。川は死んでいないけれど、見えない。そんな見えない川を暗渠という。暗渠が好きだと言うと「そもそも暗渠とはなんだ」に始まって、「なにが面白いのかわからない」「今までそういう視点で眺めたことがなかった」などのほか、一部好事家は「わかるわかる」と反応してくれる。暗渠は一部の人間にとって胸揺すぶる存在なのだ。この感覚を著者の一人吉村生さんは「恋」と表現する。

「私はひょんなことから、その商店街のつなぎ目に昔、川が流れていたことを知る。「暗渠」との出逢いだった。この現象を他者に論理的に伝えることは難しい。おそらく、恋に落ちる感じと似ている」

 暗渠に惹かれること、それはもう論理を越えた恋なのだ、と。なんといったって、吉村さんは暗渠と「出会い」ではなく「出逢い」を経験してしまったのだから。
 しかし吉村さんは恋のドキドキだけで暗渠との関係を済まさない。

「どんな「ドブ」にもものがたりがあり、地形が記憶を紡ぎ出す。過去と現在、街の裏と表、昭和と自分、生と死などが交差する場所が暗渠だった」

 ここに至って暗渠は単なる興味の対象ではなく、彼女の世界認識の根源の一つとなっている。さらに暗渠ガイドなどをしながら拡がっていったネットワークを通じて暗渠沿いの地元の人々との交流、聞き書きに及び、こうなるともう過去を整理し記述し後世に残す役割すら著者にお願いしたくなる。

 共著者である高山英男さんはちょっとスタンスが異なる。吉村さんが「恋」と表現した感情を高山さんはなぜそういう恋心を抱くのだろうか、とメタ視点から分析する。この絶妙な二人の掛け合い。

「暗渠歩きを重ねるごとに、暗渠の魅力は「ネットワーク」「歴史」「景色」の三つに大別することが見えてきた」

 われわれが普段思い浮かべる道路や鉄道網でのネットワークに加え、見えなくなってはいるが川が結んでいたネットワークもあるのではないか、と。かつて大きな街は水運が発達していたので、歴史的に見ればそのネットワークが大きな役割を果たしたことは想像に難くない。
 そして歴史。川辺の歴史は日本史で学ぶような大きな歴史とは異なる生活の手触りのする歴史を私たちに伝えてくれる。東京には「暗渠に込められた東京のものがたり」があるが、同じように世界中の暗渠に、その街の人々の小さいけれども、大切な歴史が込められている。
 そして「景色」に至ってその表現はより標準化、モデル化を指向し始める。暗渠に見られる景色、たとえば銭湯やクリーニング屋などを暗渠サインとして定義したり、暗渠に見られる加工度をレベル分けしたりしているが、しかし、白眉は景色を語る最後の「見立て」である。ここに至ってまったく違うアプローチをしていた共著者である吉村さんと同じく、言ってみればエラン・ヴィタールの瞬間。「恋」という言葉で暗渠に飛びついた感情を吐露した吉村さん、「見立て」という言葉で暗渠に飛び込んだ高山さん。
 枯山水は水を抜くことによって水を意識させる日本独特の表現形式で、これは要するに最高の有は無によってしか表現できない、という逆説的な表現なのだけれど、まさに暗渠こそ現代の枯山水なのかもしれない。
 図版豊富、写真豊富、過去の映画作品に現れた暗渠や日本だけでなく台湾の暗渠まで味わう二人のこの生き方を賭したような暗渠との付き合いが強く表れた本、地形や歴史、暗渠好きな人はもちろん、そうしたマニアックな人の情熱に触れたい人にもおすすめの好著。
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高橋ヨシキ「悪魔を憐れむ歌」

2013年11月29日 00時22分05秒 | 読書
 日常が牙を剥くなどという言い方があるけれども、実は私たちを切り裂き噛み潰す牙はそもそも日常の中にセットされていたのではないか。気づかないふりをしたり、本当に気づかなかったりしているだけで、ほんのちょっとした悪意、ほんのちょっとした偶然で私たちの平和などもろくも崩れ去ってしまうのではないだろうか。
 たとえ私たちが目を閉ざし耳をふさいで身近な安全の中で生きていようとも、世界は野蛮や暴力、残酷に満ちている。

「世界はフェアではない、人間は残酷なものだ、愚行はこれからも繰り返される……というのが、モンド的な考え方だ。モンドな世界観は視界が広く、そして通史的でもある。なぜなら人類は歴史を通じてずっと残酷だったからで、モンド映画はその「どうしようもない現実」をずらりと並べた屋台のようなものだということができる」(高橋ヨシキ「悪魔を憐れむ歌」以下同)

 ヤコペッティの残酷ドキュメントについて語ることによって作者は人間の残酷さ、なしてきた愚行について語っている。
 そうした人間たちを映す映画はしたがって薄っぺらなモラルをふりかざす道徳の教科書でもなければ、見たいものだけ映ってる幼稚なお花畑でもない。
 『アポカリプト』について彼はこう語る。

「 『アポカリプト』の世界観は実にモンド的だ。『食人族』や『人喰族』を観た時のやるせない気分もあるし、地獄パノラマの描き方は『残酷大陸』や『大残虐』に通じる。まったく異質な世界が舞台で、現代人の価値観が一切通用しないところは『カリギュラ』を思わせる。ペットや子供が絶対に死なない昨今のハリウッド映画とは対極の、血も涙もない残酷な原理がすべてを支配する。だが、かつて我々はみな『アポカリプト』に登場する土人たちのようではなかったか?」

 映画と向き合うことは筆者にとって生と向き合うことに等しいのではないかと思う。
 本全体の熱量とその姿勢の真っ当さに目がくらむ勢いである一方、『エクソシスト』に対する詳細な論述などこの本は実に重い。
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ジェーン・スー「私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな」

2013年11月20日 11時57分23秒 | 読書
 自己言及のパラドックスを持ち出すまでもなく、往々にして自分語りは気持ちが悪い。
 その頂点に君臨するのが二谷友里恵の「愛される理由」だとすればこの本は対極にある。自慢話の対極が自虐話だと思われがちだけれど、この本は決して自虐ネタ本ではない。自虐的な部分もあるにはあるが、それらを含めてこの本の最大の特徴は透徹したメタ視線である。つまり我を忘れた自慢話の対極は自虐ではなく、冷静なメタ視線なのだ。もちろんそれにしたって自己言及という罠に陥る危険はある。そこを救うのが未婚のプロ(あるいは「ジェーン・スーと愉快な未婚の仲間たち」)という一人称複数形なのだ。自分の話を友人話にスライドすることによって自己言及にありがちな気味の悪い語り口を避けている。彼女特有のしゃべり方を彷彿とさせるなめらかな語り口ですらすら読めてしまうが、結構用意周到な仕掛けの張り巡らせられた本である。
 未婚のプロとは「「自分が自分じゃなくなるぐらいだったら、さみしさが楽しさを凌駕するまで独身生活の楽しさを味わいつくしたい!」と独身チキンレースを続けている」女性たちのことである。自分ジャンキー、自分が大好き、仕事が面白い、独身生活が楽しくてたまらない、そんな女性たちが40過ぎて自分に適した男を見つけて結婚するだろうか。というより、結婚生活がその独身生活を凌駕すると想像できるだろうか。未婚のプロとは女性の問題ではなく、社会の変化に応じて生まれたライフスタイルなのではないか、と思う。そうした未婚のプロが優れた知性をもって男と女についてユーモラスに語る、これが面白くないわけがない。
 それにしても星野智幸の「毒身」ものから10年、同じ独身にしてもそれを巡る境遇、語るスタイルの変遷に思いを馳せると興味深い。
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古川日出男「サマーヴァケーションEP」

2010年08月01日 20時19分20秒 | 読書
 春休みよりも冬休みよりも、身体性は夏休みと仲がいいと思います。身体性と夏休みが仲良く肩を組んで赤羽で飲み歩いている姿をよく見かけたりもんです。この間九十九里に行ったときは、ビキニを着た若い女の子の肉体に圧倒されました。なんというか、むき出しの身体性。思わず、西東三鬼の「恐るべき君等の乳房夏来る」の句が浮かびます。その身体性は圧倒的だったのだけれど、不思議にエロティックじゃなかった、おじさんは、君たちの若さはすでに異物としてしか感じられないんだよ、そう思うと少し哀しくもなりましたが、よろしく哀愁。
 また、夏の持つ身体性は露出度の高さだけじゃありません。
 夏は身体を用いたアクティヴィティと仲がいいんです。冬や春よりも、実際に身体を使って何かをやろうと(本当はやらないにしても、だ)思わせる、そんな季節です。
 そしてこの高い気温は人の体臭を誘います。

「いまは夏です。とても暑い、夏です。けれども僕にはぴったりです。暑いと、人の匂いがわかるからです。体臭は一人ひとりちがいます。だから僕は、そういう匂いで、助けられます。夏に助けられます。
夏が僕を助けるんです。匂いをいっぱいにして」

 主人公は生まれつき人の顔を認識することができません。概念として口が一つ、鼻が一つ、目が二つなどはわかるけれど、そうした数の概念では個体を識別することはできない。だって、パーツの数で言えばぼくは麻生久美子と一緒なわけで、それは顔としての情報としては失格なわけです。
 主人公はその日初めて「ホーム」から自由行動を許されます。彼にとって初めての自由行動は冒険です。つまり、夏のある日、彼は冒険に出かけるわけです。
そこで訪れた井の頭公園。主人公はその池が神田川を経由して、隅田川となり海につながっていることを知ります。
 たまたま知り合った永遠の夏休みに憧れるウナさん、自殺したカネコさん、弁天池でボートに乗ったので呪いがかかってしまった、なんでボートになんか乗ったんだよと騒ぐイギリス人とそんなの知らなかったんだもんと応じないへそ出しルックの日本人女性のカップル、彼らと冒険を共有しに、井の頭公園から海まで歩こうと。そんなふうに、夏の旅が始まります。
 変な話でしょ。でも、ぼくはわかる。川があって、それが海に続いていたら、海に行きたくなるでしょ? ならない? なるって。だって、川だよ。で、それが海につながってるんだよ。ほら、行きたくなったでしょ? 歩いてでも自転車でもいいけれど、自分の脚で行きたくなるでしょ。で、そんな風に海に行きたくなる季節を人びとは夏と名づけたんです。一年の内で一番暑い季節を夏と呼ぶんじゃないんです。本末転倒なんです。自分の脚で旅に出たくなる季節、それが夏なんです。たまたまそれが暑かっただけなんです。言ってることのほぼすべてがむちゃくちゃであることを自覚しつつ、話を進めます。
 あ、あと経験則で言うと、井の頭公園の池でボートを漕ぐと別れるという伝説は本当です。というか、ぼくの経験では、ボートを漕がなくてもいずれ別れるという、諸行無常の響きが結構なビートで刻まれています。そのへんの諸事情は私生活暴露ブログではないので、この辺で。
 さて、ここからはこの旅の醍醐味、川と電車と地形とが出現してきます。


「かわりに、川が沈んだわけだ」とウナさんは言います。
「そうか」とカネコさんが答えます。「そうとも言えるね。レールが地面とおんなじ高さになって、神田川のほうは、こんなふうに何メートルも、あたしたちのいる地面より、下、流れるようになって」
「うん、下な」とウナさんが応じます。「沈んでね。もう、どんどん地形が変わる。地形、だよね?」


 GAKKENから出版された「JR東日本全線鉄道地図帳」というDVD付きMOOKがあるんですけれど、川と鉄道と地形の高低差ってものすごく面白いんです。とりあえず、ぼくの持っているのは第1巻の「東京編」なんですが、線路って川と一緒なんだな、と実感します。ジブリ映画「千と千尋の神隠し」では川は龍(=翁=童子)として表されていました。巣鴨の江戸橋から下を走る電車を見ていると、まさに鉄道は川であり、そこをうねりながら猛スピードで走ってくる電車は現代の龍のように見えます。そんな実感はこの本にもあって、


「―――線路は電車の川だなあって思います。僕たち、いろんな線路を見てきたんです、ここまで。いろんな電車が通過するのも。だから、これも神田川に交差したり並行したりする、いろんな川の一つだって僕は感じるんです」


 途中、さまざまな出会いと別れを経て、主人公とウナさん、カネコさんは進んでいきます。そして夏の一瞬が永遠と化すんです。


「時間が氾濫しているのがわかります。
時間があふれて、永遠なのがわかります。
それが僕たちの夏休みなのがわかります」


 時間は永遠ではありません。そんなことは誰もが知っています。だけれど、永遠に残る時間というものは確かにあります。そしてそういう時間を持っている人を幸せな人と呼ぶんです。お金じゃありません、地位でもありません。もちろん、お金があっても、地位が高くても構いません。問題はそういうことではなくて、永遠の時間と呼べるものをあなたは経験したことがあるか、ということです。主人公たちの旅は小さな旅です。東京から一歩も外に出ていません。だけれど、その旅で彼らは永遠の時間を一つ手に入れました。
 そんな素敵なサマーヴァケーション。2010年夏、ぼくのサマーブックです。
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東海道四谷怪談

2010年07月15日 23時10分24秒 | 読書
 夏です。
 夏っていえば怪談でしょう。いやだな、いやだな、こわいな、いやあ、なんか妙だなあ、変だなあ、だってそうでしょう、で、あたし気づいちゃったんです、という常套句が散りばめられる稲川淳二、通称イナジュンの季節。
 こないだ「東海道四谷怪談」に関する原稿を書くことになったので、お岩さんのお墓参りに行ってきました。「東海道四谷怪談」はお岩さんの八面六臂の活躍が有名だけれど、あれは、もともとは忠臣蔵のスピンオフとして企画された芝居でありました。芝居では、だから田宮家はもちろん赤穂ではなく、塩冶家臣。


 場所は巣鴨の妙行寺。お岩さんは、芝居ではああいうふうに描かれていたけれど、実際はずいぶん違うらしい。お岩さんが嫁いだ田宮家は貧しい家だったのだけれど、お岩さんが女中奉公などして家が次第に豊かになり、その家内神のお稲荷さんが近所の評判でよその女の人達が参詣に来た、と。ここらへんからお岩さんの霊力が噂されるようになったのではないか、と思う。



 これがお岩さんのお墓。手を合わせて、あなたのこと書きますけれど大目に見てくださいと、お願い。
 でもね、ここがお岩さんのすごいところだと思う。だって、菅原道真や崇徳上皇について書こうと思っても行かないでしょ、墓参りに。でも、いまだにお岩さんの芝居をやるときに墓参りしなかったから、誰それが怪我したとか、死んだとか、そういう話があるじゃないですか。その力量。
 お岩さんって、他の怨霊とはね、もう全然違うんですよ。天神様として祀られている菅原道真だって、数人祟り殺したと、病気とか雷とかで。でもね、お岩さんってもうそういうレベルじゃないんです。南北の描いた「東海道四谷怪談」でお岩さんが殺した数は18人、しかも手ぬぐいを使って絞め殺したりもしてるんですよ。祟りってえより、普通に殺人でしょ、それ。お岩さんがその手で人を殺した段階で、彼女は幽霊レベルを脱してお化けになったんです。
 先月原稿書いたものなので、深くは書けないんですが、「東海道四谷怪談」って、ものすごく面白いです。芝居を観る機会があればぜひ、いつか忠臣蔵を通しで見た後、四谷怪談を見たら、その裏返しの芝居と裏返しの主題について鶴屋南北について感心するかもしれません。
 でも、そういうこと一切なしに見ても、この芝居面白いんです。昔これを見て、わおわお喜んでいて、こないだ戯曲を読んでまた感心しました。南北、日本文学の巨匠の一人なんじゃないか、と。
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みうらじゅん「正論」

2010年05月25日 17時30分07秒 | 読書
みうらじゅん「正論」     コアマガジン

 そんなわけで、みうらじゅん対談集「正論」。対談相手を列挙。
峯田和伸(銀杏BOYZ)/山田五郎/杉作J太郎/遠藤賢司/田口トモロヲ/ウクレレえいじ/和嶋慎治(人間椅子)/根本敬/ROLLY/いとうせいこう /安齋肇/猫ひろし/水野晴郎/喜国雅彦/大槻ケンヂ/泉麻人/西城秀樹/久住昌之/しりあがり寿/松久淳/RYO(ケツメイシ)/高木完/内田春菊 /JAGUAR/カーツさとう/清水ミチコ/ATSUSHI(ニューロティカ)/スチャダラパー/はな/リリー・フランキー/南伸坊/泉晴紀/山口隆(サンボマスター)/井筒和幸/久本雅美/吉田豪

 何人か知らない人もいるけれど、ほとんど知ってる(でも、なぜ、ジョー秀樹?)。前回タモリが昼帯に進出するようになって、サブカルは消えた、と言ったのは、こういうことだ。彼らはあの時期を境に、「サブ」ではなく日本の「メイン」カルチャーになってきたわけだ。
 だって、リリー・フランキーの小説がベストセラーになり、しりあがり寿が朝日新聞で四コマを連載している現在、彼らをサブと呼ぶには抵抗があるだろう。
 あの「不思議大好き」の時代にはみうらじゅん世代が「けっ」と思う権威主義的文化が存在していて、彼らはサブカル(カウンターカルチャー)という形でその権威主義的文化を切り崩していった。彼らのその活動はあまりにも魅力的だった。だから愛好者や追随者は、いつしか彼らが切り崩している権威主義を拡大解釈していった。
 たとえば音楽に関しても、バッハそのものが悪いのではなく、バッハという権威にしがみついている層に対して「けっ」と言ったわけなのだけれど、それが「バッハなんて聞いてるヤツ古臭い」になり、挙句の果て「バッハってなに?」という流れになった。
 つまり、反権威主義が、いつのまに反教養主義に変わっていったわけである。
 だけど、バッハにしがみつく層を批判していた坂本龍一や浅田彰などは、実はバッハをよく知っていたのだ。反教養主義ではなかったのだ。
 そして、反教養主義が完全に日本を席巻した現代、ある日高橋源一郎はショックを受けた、と言う。ついにこの日が、と。なんと東大の文学部の大学院にドストエフスキーを知らない人間がいた、と。読んだことがないのではなく、知らないのだ、と。彼が教えている大学には文庫本を知らない学生が出現した、とも。
 つまり、2010年において、かつて大人の固苦しい権威主義的な文化をあざ笑うかのようなサブカルチャーは存在し得ない。だって、そんな文化(あるいは文化そのもの)なんてないんだもん。

みうら 自分なんて特にサブからだと思って、味を占めて生きてきた人間ですよ。サブカルって何の影響がないから、楽に生きてきたんですけども、段々「サブカルは単なる世代のことである」ってことがもうばれちゃって、俺らの後に続く人もいないわけですよ。単なるジェネレーションのことなんですよ(みうらじゅん&松久淳)

 そう、あの時代のあのジェネレーション、それがサブカルだったのだ。そしてその時代のサブカルを横目で眺めつつ、一部をのぞいて距離を置いた青春時代を過ごしたぼくは、なぜかここ10年くらいサブカルの人たちの仕事を追うようになった。
 そしてこのサブカル大集成対談集。すばらしい。そこかしこに名言が散りばめられている。
 もっとも、その名言がどこに散りばめられているか、と言えば、チンコとウンコとオナニー話の上になんだけど。

トモロヲ 人生って、自分がいかに天才じゃなかったっていうこととの戦いだよね。若い時は、自分は天才だ!なんて簡単に思えるけどね。
みうら  ひょっとして天才じゃないかも?って疑いだした時から悩みが始まるもんね。
トモロヲ 天才は世間のこと気にしないもんね。
みうら  言い方だけで、本当はキ*ガイのことだもんね。キ*ガイにはなりたくないわ、天才にはなりたいわってのはどだい間違ってるんだよね。
トモロヲ 都合よすぎだよね。  (みうらじゅん&田口トモロヲ)

 鋭い。もっとも、この話は、田口トモロヲがライブハウスでゲロ吐くパフォーマンスをハウス側に禁じられたので、脱糞してみせた、というエピソードに続くんだけれど(詳述はしないけれど、このエピソードは細かな部分が大事)。一事が万事、下ネタと根拠のないいい加減な感じで話は進み、そこから名言がつむがれていく。なんというか、名言を生む肥やしとしての下ネタ(なんだよ、それ)。
 リリー・フランキー得意のクンニ話、山田五郎やいとうせいこうの体育会系ディスなど、ニヤニヤさせながら、ところどころ鋭い言が飛び出す、みうらじゅんだからこそ引き出せる名言の数々。素晴らしい対談集。
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マット・ラフ「バッド・モンキーズ」

2010年05月05日 00時24分33秒 | 読書
マット・ラフ「バッド・モンキーズ」   文藝春秋社


 そんなに他人を全面的に信頼するわけなんかなくって、口じゃそう言ってるけどほんとは違うこと考えてるんじゃないか、とか、普段他人と接しているとき、いろいろ思うことあるんじゃないか、と思う。
 でも、なぜか、小説を読むときは語り手の言う事を全面的に信用してしまう。ああ、そんなことがあったんだ、と。
 現実の他人には真意を問うのに、なぜ小説の語り手は疑わない? もしかしたら、前未来形で自分を語っているのかもしれないじゃない? 語ることによって、自分をそう思ってもらいたいという欲望に基いて物語を語っているかもしれない。語りは、いつの間にか騙りへと変貌し、文学空間とはすなわち騙りの地平に広がっていく曖昧模糊にしていくつもの内側へ折り重なる襞によって形作られるのかもしれない。
 たとえば田山花袋の「蒲団」は、確かにいやらしい自己意識が解剖学的に語られているけれど、あれがすべてだったかどうか、誰にも断言できない。もっと卑劣なことを考えたり、もっとスケベなことを蒲団にしたことを隠蔽するために書かれたという見方を誰が否定できるだろう(この場合、田山花袋が考えたこと、したことではなく、あくまで「蒲団」の語り手のこと)。
 書かれたことが読者に与えられたすべてであるにも関わらず、それが何かを隠蔽するために書かれたテクストであるかもしれない疑いを私たちはぬぐい去ることができない。
 小説を読むときに語り手を疑う。これは小説の楽しみ方の一つとして重要なんじゃないか、と思う。
 たとえば「そんな風にして私は殺されました」という文。もちろん、コンテクストからレトリックとしての死が語られたんだと了解される場合もあるだろうけれど、どうやら、おいおい、この主人公、ほんとに死んじゃったみたいだよ、という場合、私たちはどうしたらいいのだろう。この主人公はどこから語りかけてきているのだろう(それを逆手に取って「うまい」小説を若くして書いたのが乙一。彼の「夏と花火と私の死体」は、しかし、あのジャンルだから許されている部分もあるんじゃないか)。
「オンリーワンで本当の私」なんてもんが気持ちの悪い妄想のように、「本当の語り手」など存在しない。小説とはすべて騙りの地平で編まれながら、良質なものは真正な力を持つ不思議な存在だと思う。
 で、長々とマクラを振ってきて、この「バッドモンキーズ」。語られる内容はまるでパルプ・フィクションなんだけれど、そのパルプぶりが最近楽しいと思うようになってきた。インチキっぽい光線銃、悪と戦う秘密結社、斧を持って後部座席で控えていた助っ人(のようなもの)、どれも薄っぺらいパルプぶりで、その薄っぺらな活躍が楽しい。
 そして、この小説の荒唐無稽さを支えているのが、語り手が信用できるのかできないのか、その判別を保留にしたまま語られる危うさにある。ものすごいバランスの上に成り立っている小説だと思う。そしてその心意気は、実はアニーという、いつもワケの分からない言葉を口走っている登場人物に現れている。この小説、ぼくが一番評価するのはアニーという登場人物を存在させたこと。アニーという存在は、まんま小説全体を象徴している。ワケの分からない言葉を口走っているアニー、頼りになって誠実なアニー、その二面性は語り手であり、人間そのものであり、この小説の枠組みそのものだって、そしてただのパルプ・フィクションじゃなくて、ちょいメタで異化作用のある作品なんだよ、という作者の「気づいてよ」サインのようにも思えた。
 なかなか楽しめた作品。装丁も本文の紙質もパルプ・フィクションっぽくていい。
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経済の誕生

2010年02月10日 18時41分07秒 | 読書
栗本慎一郎/小松和彦「経済の誕生」     工作舎

 なぜ人はパンツをはくのか。
 それは脱がすため、あるいは脱ぐためだ。かつて「パンツをはいたサル」で一世を風靡したクリシン(そんな風には呼ばれてなかったけど)こと栗本慎一郎と当時気鋭の若手民俗学者小松和彦との対談。クリシン、はしゃぎ気味、30年近く前の出版。
 禁忌と侵犯。
 パンツに限らず、日本に限らず、およそ人類はこのテーマを繰り返し繰り返し語ってきた。多くの場合、それは「見ること」のタブーだ。火の神を生んで局所を火傷して亡くなった伊邪那美命を追って黄泉の国を訪れた伊邪那岐命。エウリディーチェを失って冥界を訪ねたオルフェウス。メドゥーサ、ゴモラ、さまざまなタブーがあり、人類はそのたびにそのタブーを犯してきた。
 鶴の恩返しだって、浦島太郎だって、倭迹迹日百襲姫尊命だって、見ちゃ後悔している。
 もはや、すでに「見るな」は前フリでしかない。「開けちゃだめ」って言いながらモノを渡す乙姫さんの心の中に黒いものが見える。わざと禁止を犯させるために言ってるだろ、それ。
 パンツは、つまり「開けちゃだめ」という前フリであり、そしてその後の「見ちゃう・開けちゃう」ことはすでに織り込み済みの行為なのだ。
 集団を規定できるのは、その集団に対してメタレベルから禁忌を与える異界である(とか、ちょっと言ってみたかっただけ)。そしてわれわれの集団は、その禁忌と侵犯を繰り返すことによって、集団を活性化し、かつ安定化させている。
 経済学は資産運用とか、企業情報とかとは本来質が異なるものだ。ここで言われる「経済」はクリシンのこのような発言によって垣間見られる。

 「死のしるしに接触することによって共同体が燃え上がる。死のしるしとは他界であり、燃え上がるというわけだから、燃え上がらせるもの、生存させるものこそ、広義の経済学、本当の経済学の富なんですよ」

 今でも古い議論ではない。
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山は市場原理と闘っている

2010年02月02日 22時11分57秒 | 読書
安田喜憲「山は市場原理と闘っている」   東洋経済新報社

 思いは伝わる。
 だけれど、あまりにも定型的だし、価値判断が強すぎる。
 片方に稲作漁撈民、もう片方に牧畜肉食民を置き、それぞれの属性を類型的にあげていくけれど、実はそんなに簡単じゃないし、日本は肉を食べるヨーロッパに対して、魔女狩りのようなことはしなかったとのんきに書いているけれど、中世から日本には被差別民がいて、さまざまな差別を受け、虐げられていたことをなかったことにしていないだろうか。ちょっとでも差別の歴史や民俗を考えれば、稲作して魚食べてるから優しいだなんて口が裂けても言えないだろう。
 それでも言いたいことはよくわかる。
 ただ、稲作漁撈民=植物的=美と慈悲の文明=植物的な「桃源郷」がユートピアに対して、畑作牧畜民=動物的=力と闘争の文明=動物的な「乳と蜜の流れる里」がユートピア、という図式は、いかにも類型的。もちろん、文明史的な話が往々にして図式的な語り口の方がわかりやすい面も否めない。しかし、これは行き過ぎだろう。
 戦後肉を多く食べるようになったから日本人はキレやすくなった、という論も、首をかしげざるを得ない。太平洋戦争手前の日本人の集団ヒステリーは、今の日本人よりもめちゃくちゃなキレ方だろう。おっさんの権威に対して、物怖じしない今の若者の態度を「キレる」という言い方で区切りたいのかもしれないが、実際、今キレてるのは、高齢者。
 言いたいことはずいぶん伝わるんだけれど、著者自身がきれちゃってるような気がする。でも、その切れぶりは一見に価する。あと、この本にも触れてたけれど、森岡正博に裏切られたのね。ぼくも、ちょっと彼の評価変わった。
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寝ながら学べる構造主義

2010年01月30日 18時28分28秒 | 読書
内田樹「寝ながら学べる構造主義」    文春新書

 これだけ平易に書かれた構造主義の入門書はないと思う。
 入門書だから仕方ないんだけれど、フーコーのニーチェ読解ってどうでしょう? たぶん筆者もわかってらっしゃるんでしょうが、入門書としてそこに触れる必要はないからスルーしたんでしょう。
 道徳を相対化したニーチェの思想がやがて、思想そのものを相対化する構造主義のもとになるという図式はわかるし、まさにフーコーはそんな風にニーチェを読解したのだけれど、それはニーチェには関係がない話(ナチスもニーチェには、本来的には関係がない)。誤読とさえ言われる。
 この本に盛り込まれている豊富な例やたとえは、素晴らしく、本当に寝ながら学びたい人、まずとりあえずどんなものか構造主義の入り口を見たい人には最適だと思う。体育座りにこんな思想的背景があったとは知らなかった。
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テルマエ・ロマエ

2010年01月29日 11時12分28秒 | 読書
ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ」1巻   エンターブレイン


 古代ローマの建築家ルシウスは新しい浴場建設に関して悩んでいた。ローマ人にとって公衆浴場は大事な文化である。浴場に入りながら悩んでいるうちに、彼は溺れ、浮かび上がった先は、なんと日本の銭湯。
 そう、彼は古代ローマから今の日本の銭湯にタイムスリップしてしまったのだ。もう、このプロットだけでおかしいでしょう。
 この1巻には全5話が収録してあるのだけれど、あとはもう、それぞれ都合よく、日本のさまざまなお風呂にタイムスリップしちゃ、ヒントを得てセンセーショナルな建築家として皇帝ハドリアヌスにまで認められるようになる。それがさ、たとえばフルーツ牛乳だったり、シャンプーハットだったり、もう、たまんない。書き込まれた線と絵に対する、このストーリーのユルさがギャップ萌え。古~いノスタルジックな銭湯を見て、「なんという文明度の高さ!」と感心するルシウス。われわれにとってなんてことのない、たとえば大きな一枚鏡など、古代ローマから見れば文明の証なんだということに作者の気づきなど、着眼点が素晴らしい。
 話と話の間の「お風呂コラム」も秀逸。カバーの絵から笑えるし。
 あ~、温泉入りたいっ!
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塩の道

2010年01月24日 13時15分18秒 | 読書
宮本常一「塩の道」     講談社学術文庫

 今更ながらの宮本常一。生活の連なりの中、民衆の思考が累積していく。越の国の人たちが秦に滅ぼされたのち、船で任那へ、そして任那から稲作とともに日本に渡ってきた、と。越、任那、日本を結ぶ遺物がジャポニカ米。なるほど。
 この稲作集団は、当然稲作の儀礼を持っていたので、祭祀集団でもあった。そこへ、また半島から騎馬民族が訪れる。この人たちは男性だけでやって来て、女性は現地調達したのではないか、と。それがのちのちの日本の婚姻形態を形作ってきたという主張は面白い。この本は1979~81年にわたって書かれた3編のエッセイなんだけれど、当時の中国の人口が7億とのこと。6億も増えたのか。
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平成マシンガンズ

2010年01月23日 14時06分37秒 | 読書
三並夏「平成マシンガンズ」   河出書房新社

 並々ならぬ才能。
 著者がマシンガン=小説を手にして対峙している世界を語る、その語り口に感心する。小説にはストーリーをひたすら追い求め、次どうなるんだろう、どうなるんだろうと気になるものもあるし、世界と自分とのずれの中に漂う感性が織りなす描写に心打たれるものもある。どちらかと言えばこの小説は後者的要素が強く、そしてその描写の流れが心地よい。しかし、一方、その心地よさが時々途切れるところ、そこに彼女と世界との裂け目を感じさせ、彼女が見つめ、対峙している世界の困難さに驚くことになる。
 15歳で書いたとか、15歳の割にどうとか、そういう評価ではなく、一つの小説として十分に評価できるものなのではないだろうか。
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