毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

安達太良山

2018年04月15日 16時24分47秒 | 観光

 いろんなところに行くけれど、実はそれほど危険なことをやってるわけではない。自分なりの安全許容範囲があって、それを越えそうな冒険とは縁遠い人生を歩んでおりました。


 山頂まで登ったものの、山頂直下、冷たい強風が吹きすさぶ中、寒さと風の強さに肩で息をしながら、今まさにその冒険の時だと思いました。木すらも真っ直ぐに生えない強風うずまく地。落ちたら下には何の支えもない斜度の高い雪原。しかもそこは、アイゼンが噛まない柔らかな雪質。トレッキングポールもピッケルも持たず、アイゼンは12本爪ではなく、いわゆるチェーンスパイク。風に煽られて足を取られたらよくて大怪我、悪ければ死ぬ。そして平日の安達太良山、人っ子一人いない。そうか、この状況では大怪我は死と同義か。舞い上がる雪が風に乗って顔にビシビシあたってきます。強風を避けるため岩陰に隠れます。そんな誰もいない山の中、聞こえるのは風の音と自分の荒い呼吸音だけ。岩から出たら強風にやられる、なんだか戦争映画の1シーンみたいでした。
 この時ふと、ぼくは山と自分以外の何物からも遮断された、ある種の特権的自由を感じたのでした。人間関係や仕事のこと、誰がああ言ったこう言った、そんなことは一切関係なく、山と自分の生命だけがここにあって、それだけが最大にして唯一無二の存在でした。恐怖と背中合わせの自由。まるで地球にただ一人生き残った人類のように、本来マイナスであるさまざまな感情すら、宙ぶらりんに漂い、何が悪いか何がいいかといった社会通念を超越する善悪の彼岸がそこには開けていました。
 こうした状況下でもなお、死は現実味をもって迫ってきませんでした。たぶん人間は死んじゃうなんて意識のないまま滑落してそこで慌てて死んじゃうんだろうなあ。それでも降りないと。その場所で何もしないと死んじゃうという状況は日常にはあまりないので、大変新鮮です。まさに風立ちぬです。Il faut tenter de vivre です。若い頃読んだニーチェもヴァレリも山の上では読書ではなく、実際の経験として内在化されます。


 耐えられない強風の度にその場にしゃがみこみ、ようやく雪原を抜けて比較的安全な場所まで来たら、なんだか風景がさっきより美しく見えました。世界が変わって見える。素晴らしい本や芸術に触れたときに起こるそうした自己更新が登山でも経験できました。常に刷新される自己。変わらないことなんて何一つ美徳なんかじゃない。「確固不動なのは白痴だけです」(モンテーニュ「エセー」)
コメント
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