毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

暗渠フィールドワーク

2017年02月28日 22時42分02秒 | 観光
 2月26日(日)の夜、渋谷カルチャーカルチャーで「地図ナイト」が開かれました。
 で、その地図ナイト開催前の日中、暗渠の神本田さん、境界協会の小林さんによる暗渠フィールドワークに参加してきました。超楽しい。ずっと同じ教室だったけど、あまり口をきいたことがなかった三田用水がなんだか急に気になり始めて、もしかして、これは恋? 駒場東大前から渋谷まで、あちこち回っておよそ10kmの街歩きを楽しんできました。


 ケルネル田んぼ。駒場東大にこんなところがあるとは! 明治初期のお雇い外国人ケルネルが実習用に使っていた田んぼが今でもこうして残ってると。谷戸地形がこれまた素敵。ちなみにこの田圃は筑駒の生徒さんが育て、入学式などに赤飯として食べるそうです(偏差値高そうな米だねえ)。


 まるでアイドルがそこにいるかのようにカメラ片手に殺到する人たち。でも時間が制約されてるアイドルではなく、常にそこにある暗渠なのでおとなしく順番に写真を撮ります。


 撮った写真がこれ。なにが面白いのかわからないかもしれませんが、この暗渠ぶりは素敵です。


 この一部違う舗装の下に三田用水が流れています。玉川用水から取水した江戸時代の水系なのですが、その痕跡が平成の今でもこうして残っています。ここに夢中になってしまうんですよ。空間を歩くことによって、時間を遡っていくことができる。遠くに行くのも楽しいけれど、近くを深く歩くのも超楽しいんです。


 三田用水が流れているところの尾根感が素敵。山を登っていても尾根にとっついたあとの尾根歩きの楽しいこと。三田用水、今まであまり知り合うことなかったけれど、ちょっといい感じじゃん。


 三田用水の上の土地部分は売却されたので、その上に家が建ちました。そんなわけでこの辺には三田用水の水流幅の家が建ち並んでたりします。


 この日の終点近く。こちらは渋谷川水系。もうじき宇田川と渋谷川が合流するところです。ここで解散、さあ、このあと渋谷カルチャーカルチャーで「地図ナイト」が始まります。
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祝! Jリーグ開幕

2017年02月27日 22時28分40秒 | 
 いやあ、いよいよ開幕しましたね、Jリーグ。今シーズンももちろんこのブログは横浜F・マリノス推しで進んで参りますが、その大事な開幕戦に行ってまいりました。


 なんとこの開幕日に合わせて通りの名称変更がなされる、と。旧レンガ通りがその名も「F・マリノス通り」へと変更になりました。ありがとう、横浜市港北区。敵のチームもこの通りを通って日産スタジアムへ。


 街も全体的にマリノス色。
 試合は前半に先制したものの、後半、あっという間に逆転されて1-2。ああ、いつもの悪いパターンだと思ってたら、最後まであきらめなかった選手たちが残り10分切ったところで追いつき、そしてアディショナルタイムに入って逆転! こんな展開になるとは思いもよらない喜び。


 試合終了のホイッスルが鳴った瞬間。


 もちろん喜びは選手だけじゃなく、われわれにも等しく訪れた瞬間。


 あ、あと、マスコットたちにも!

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お誕生日おめでとう 国立新美術館

2017年02月26日 16時59分38秒 | 観光


 もう過ぎてしまいましたが、先月1月は国立新美術館が10周年を迎えた「国立新美術館 開館10周年記念ウィーク」。ちょうど「19th DOMANI・明日展」を見に行っていたので、10周年記念の展示も見ることができました。カラフルな数字が整列している様は圧巻でした。
 もう10年も経ったと少しびっくりですが、まあ、そんな風におじさんも10年という馬齢を重ねてきたわけで、なんともはや。


 外に出ると樹木が草間彌生ラッピングに。
 これからもたびたび訪れるであろう国立新美術館の祝祭的な雰囲気にすっかり楽しくなったひとときでありました。
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弥彦山

2017年02月23日 13時55分44秒 | 観光
 新潟に着いたその日の天気は「暴風雪」。東京ではあまり耳慣れない言葉ですが、まあ、結構大変な天候であります。雪が風に舞うとか、そんな生易しいものではありません。まずこちらの雪はほぼ氷です。道に落ちているのも細かな粒になった氷。それがビュウっという風に乗ってこちらの身体に向かってぶつかってきます。ビュウっ、バチバチバチ。顔や手など出ている部分に当たるとこれがまた痛いのなんの。ビュウっ、バチバチバチ、いたたたた。だいたい、これの繰り返し。ビュウっ、バチバチバチ、いたたたた。人間よくしたもので、繰り返していくうちにだんだん面白くなってくる。ビュウっ、バチバチバチ、いたたたた。ビュウっ、バチバチバチ、いたたたた。ビュウっ、バチバチバチ、いたたたた。何やってんだ? 父も母も真冬の新潟でこんなことを面白がるようにぼくを慈しみ育てたわけではあるまいに。申し訳ない。


 荒れ狂う日本海。本気出すと怖い。

 暴風雪予報だったのでその日は市内で安居ゆかりの地を歩いたり、県立万代美術館で鴻池朋子「皮と針と糸」、新潟市マンガ・アニメ情報館で「江口寿史 KING OF POP」を堪能。弥彦は翌日の天候回復予報に賭けたのでありました。
 そして翌日。変わらぬ暴風雪予報。嘘つき…… 思わずうつむいてつぶやいてしまう。しかし今日帰る身としてはうつむいてばかりもいられません。吹雪の中ホテルをあとにし、一路弥彦へ。


 さすが天下の弥彦神社。JRの案内にも鳥居マークが。


普段なら参拝者で賑わうであろう弥彦神社もこの日ばかりは閑散としています。歯を食いしばってお参りして、本殿奥に見える弥彦山を目指します。


 登山道はだいたいこんな感じ。それでもちゃんと装備していたのとこんな天候なのに登る人がいるのか踏み跡もしっかりあって楽ちん。現地の人々は登山靴なんてはかずにゴム長で登っていました(あとで聞いたらこのあたりではスパイク付きのゴム長が大変ポピュラーなんだとのこと。さすが日本屈指の豪雪地帯)。


  ビュウっ、バチバチバチ、いたたたたの繰り返しがすっかり面白くなってしまったので、この状況をより面白く味わうために売ってたアイスを食べます。いいえ、やけくそではありません。違うんです。もうこうなっちゃったら、アイス食べるとかの方が断然面白いんです。たとえ味がなんだかほとんどわからないような状況であったとしても。


 山頂の御神廟(奥宮)に到着。ここで奇蹟が起こります。なんと到着と同時に吹雪がやみ、空が明るくなってくるではありませんか。その途端、ああ、自分はきっと山で死ぬ運命なんだなって思いました。谷川岳に登ったときの晴天、そしてこの弥彦山、山はどんどんその姿でぼくを魅了していきます。こうして人は深みにはまるのです。そして自分はどっちかというと喜んで深みに陥っていく性格。行き着く先が容易に想像できました。


 御神廟から眺めた日本海。美しい。この海が見られるなら、山登りは全然苦ではありません。ああ、またしても甘い山の罠。


 関東の人間からすると不思議な感覚になる海沿いの登山道。巨大すぎる関東平野のせいでこうした景色に出会うことがあまりないのです。

 そんなわけで暴風雪で一時は遭難も危ぶまれた新潟弥彦山でしたが、登ってみたらこれは大変楽しい山で、景色も最高、神社も立派。行ったかいのある旅になりました。
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鴻池朋子「皮と針と糸と」

2017年02月12日 22時34分42秒 | 出会ったものたち


 去年横浜で開催された鴻池朋子「根源的暴力」。非常に大きなインパクトを与えてもらいました。そして今回、新潟県立万代島美術館で開かれている「皮と針と糸と」に滑り込みで入場できました。相変わらず私たちの根源的な部分に掴みかかるような作品たち。
 デカルトの命題にもはや立脚できない私たちは私たちの主体を担保するものを模索する。たとえば皮膚によって内と外を隔てられたかに見える肉体にその役割を担わせようとする試みはどこまで有用だろうか。私の身体は果たして私という存在の基盤になりうるのだろうか。むしろ、肉体は「私」が最初に出会う自然的存在であり、最初に出会う他者であると言ってもいいのではないか。一時期ぼくは必要以上に山を縦走したり、自転車で山を登ったりしていたことがあった。そんな時にぼくの身体がぼくのまったく予想しない振る舞いを見せるその様が面白くてならなかったからだ。自分の身体だと思っていたものが、実は自分のまったく思うとおりにならない肉体だということが不思議でそして興味深く面白かった。
 あるいはまた、この身体の中には本当にぼくだけが存在しているのだろうか。身体の中に身体化された他者や歴史、自分のものではない記憶や他者の欲望が内包されているのではないだろうか。
 であるならば、屹立した自己同一性など実は存在せず、曖昧な主体と曖昧な肉体が存在しているだけなのではないか。そして、実はその曖昧さこそ、人間の多種多様な文化を生み出す多種多様な想像力の源泉なのではないだろうか。曖昧な「私」は常に他者の存在によって変わり続ける。小さな死を経て、新しい自分が誕生する。他者の肉体との接触によって私たちは小さな死を経験する。もちろん、その他者が人間であるとは限らない。民話的世界において動物と人間は常に入れ替わることの可能な対称的な存在であった。その世界において私たちはある時には動物を食べ、ある時には人間に変身した動物と交わった。他者の肉体を食べること、交わることによって、曖昧な主体である私たちは小さな死を経験する。
 さまざまな存在が入り混じり、そして変容していく様は圧巻の一言。
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