坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

いわし亭

2009年02月02日 | 坊主の家計簿
 2月2日

 雑費  ノリ&ピンセット    200円
     電車往復        420円
     自転車         120円
     タバコ         300円
     居酒屋        4000円
 外食  めし          610円
     カレーうどん      380円

 合計             6030円
 2月累計           6150円

 所用で外出。
 今日は永年の憧れだった『いわし亭』っちゅう鰯料理専門店へ。
 鰯は『いし、かわら、つぶて』である。その専門店である。しかも、今みたいに鰯が高くなかった時代からやっている店である。まさに『いし、かわら、つぶて』を黄金にする店である。
 つまり

【如来の御ちかいを、ふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまうは、すなわち、りょうし・あき人などは、いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとえたまえるなり。】(親鸞)

 である。
 
【他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。】(歎異抄より)

 である。

 鰯は『魚』に『弱』である。まあ、すぐに腐るのだ。それが故に『弱』である。
 強さを求めざるを得ない弱い人間もすぐに腐る。「どうせ私なんか。。。」になる。

 しかし『いわし亭』である。
 『いわし亭』は、雑魚であり肥料でもある『鰯』が「本当はこれだけ美味しいんだ」と、鰯料理の専門店である。

【「不簡貧窮将富貴」というは、「不簡」は、えらばず、きらわずという。「貧窮」は、まずしく、たしなきものなり。「将」は、まさにという、もてという、いてゆくという。「富貴」は、とめるひと、よきひとという。これらを、まさにもてえらばず、きらわず、浄土へいてゆくとなり。「不簡下智与高才」というは、「下智」は、智慧あさく、せばく、すくなきものとなり。「高才」は、才学ひろきもの。これらをえらばず、きらわずとなり。「不簡多聞持浄戒」というは、「多聞」は、聖教をひろく、おおく、きき、信ずるなり。「持」は、たもつという。たもつというは、ならいまなぶことを、うしなわず、ちらさぬなり。「浄戒」は、大小乗のもろもろの戒行、五戒八戒、十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、、六万の斎行、梵網の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを「持」という。かようのさまざまの戒品をたもてる、いみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに、真実報土には往生をとぐるなり。みずからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては、実報土にはうまれずとなり。「不簡破戒罪根深」というは、「破戒」は、かみにあらわすところの、よろずの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらわずとなり。「罪根深」というは、十悪五逆の悪人、謗法闡提の罪人、おおよそ善根すくなきもの、悪業おおきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かようのあさましき、さまざまのつみふかきひとを、「深」という。ふかしということばなり。すべて、よきひと、あしきひと、とうときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかいには、きらわず、えらばれず、これをみちびきたまうをさきとし、むねとするなり。真実信心をうれば実報土にうまるとおしえたまえるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。「総迎来」は、すべてみな浄土へむかえかえらしむといえるなり。「但使回心多念仏」というは、「但使回心」は、ひとえに回心せしめよということばなり。「回心」というは、自力の心をひるがえし、すつるをいうなり。実報土にうまるるひとは、かならず金剛の信心のおこるを、「多念仏」ともうすなり。「多」は、大のこころなり。勝のこころなり。増上のこころなり。大は、おおきなり。勝は、すぐれたり。よろずの善にまされるとなり。増上は、よろずのことにすぐれたるなり。これすなわち他力本願無上のゆえなり。自力のこころをすつというは、ようよう、さまざまの、大小聖人、善悪凡夫の、みずからがみをよしとおもうこころをすて、みをたのまず、あしきこころをかえりみず、ひとすじに、具縛の凡愚、屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり。具縛は、よろずの煩悩にしばられたるわれらなり。煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやますという。屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり。これは、あき人なり。これらを下類というなり。「能令瓦礫変成金」というは、「能」は、よくという。「令」は、せしむという。「瓦」は、かわらという。「礫」は、つぶてという。「変成金」は、「変成」は、かえなすという。「金」は、こがねという。かわら・つぶてをこがねにかえなさしめんがごとしと、たとえたまえるなり。りょうし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいを、ふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまうは、すなわち、りょうし・あき人などは、いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとえたまえるなり。摂取のひかりともうすは、阿弥陀仏の御こころにおさめとりたまうゆえなり。】(親鸞)

 ちゅう事で、『いわし亭』で飲んで来たのでさっさと寝ます。昼寝も夕寝もしてないし。

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