坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

2007年08月01日 | 坊主の家計簿
 8月1日

 雑費  タバコ         300円
 外食  豚汁飯卵焼き      432円

 合計              732円
 8月累計            732円

 昨夜、御禁制の深夜ラーメンを食べてしまったので、今日は朝からひたすら腹が痛い。。。
 ああ、何度人生でこういう失敗をし続けて来た事か。。。こりんやっちゃなぁ。。。
 とは云え、トイレに何度も行きつつなんとか仕事を終える。腹が痛かったのでヘロヘロになって仮眠仮眠。っちゅうか、3時間爆睡。

 しかし、気をつけなければならない。夏休みは聖地『燕三条』なのだ。当然、酒も飲む。しかも聖地である。「よっしゃ、寝る前にもう一杯だけ喰っとこか」で下痢したらアカン。次の日にラーメンが食べられなくなってしまう。それはよくない。
 しかも寝る前の背脂ラーメンである。
 あ!違うのだ。昨日買った『ラーメン発見伝第6巻 日本海ラーメン紀行』つまり、私が新潟ラーメンを知った漫画であり、新潟ラーメンを全国的に広めたきっかけになった漫画を読み返していると『背脂ラーメン』ではないらしい。『豚脂ラーメン』らしい。背脂だけでなく、豚の腹の脂や様々な部位の脂をブレンドしているのが燕三条ラーメンらしいのだ。ますます楽しみになって来た聖地ツアー。

 そういや、昨日夕方から飲みに行く前にちょっと資料を調べに行った。で、気になった所をコピーして貰ったんだが、欲しかった資料と関係のない、つまりコピーは雑誌の見開きでしてくれるので、その前のページの記事も一緒にコピーして呉れる事になるわけやね。
 で、諸々読んでいるとどうやら親鸞流罪『居多ケ浜』について書かれた文章であるみたいだ。但し、こっちの記事も何ページかに渡っての記事らしく、最後だけしか読めないが。
 『居多ケ浜』には3回ぐらい行っている。一番最初は直江津に泊まった時に海を探してウロウロと。別に『親鸞流罪』なんぞに全く関心がなかった時代。確か夜だったと思う。っちゅうか、夜から朝にかけてやったかな?直江津で朝を待っていたのかも知れん。イマイチ記憶がない。確か、駅の地図で海を探してたらたまたま見つけた記憶がある。
 次は坊さんになっていたのか寺に遊びに行く様になっていたのかは憶えていないが、『親鸞流罪』という事を知って行った。ついでに近所の寺も廻った記憶があるし。
 3度目は坊さん学校別科時代の冬休みに行った。

 なので、別に今回は行く気はなかった。駅から歩くと結構あるのだ。しかも『真夏』という条件で昼間に歩くとしんどそうやし。けど、まあ、直江津には『塚田そば店』というラーメンを饂飩・蕎麦の出汁で食べさせてくれる店、つまり高松の松下製麺所や、姫路駅の『そば』みたいな感じの店もあり、これは行かねばならぬ。やっぱり行って来よかなぁ。。。今年は『親鸞流罪』で観光化されているみたいだし、それも楽しそうだし。
 とは云え、やっぱり真夏の炎天下に30分以上歩いて汗だくになるのはしんどいのぉ。。。

 なんだが、この文章はエエ。この文章を読むと、いや、読んだ後だから行きたくなった。


【海雲比丘とは華厳経に出てくる善財童子の物語である。善知識を求めて歩く童子は、海を十二年間も、じっと眺めて悟った海雲比丘に会う。海は深くて、その底が解らないといいながら、海の特性を四つ挙げる。
 (一)海水の色が不思議
 (二)大身の衆生が依止している
 (三)大海は水の性のいるところ
 (四)大きな雲が覆っている
 海をみるとは海の中に自己自身の姿をみる。観察十二年とは、十二因縁これなりといわれるように、我々人間の苦悩の実相を観察したということである。海の色が一刻一刻変化する中に、生死無常なる人生の姿、微妙なる心の変化、人間の生存の実相、いつはてることもない争い、その他、種々な人間業を観察したということであろうか。
 更に海雲比丘は、このどうすることも出来ない現実を何か荘厳するものはなかろうかと海の底を眺めたところ、「如宝蓮華」が自然に湧き出て、全ゆる百万の阿修羅、竜王、諸天が帰依していたと象徴的に語られている。
       ×                 ×
 宗祖は華厳経を読んでおられた。この物語をどんな気持で見ておられたか解らない。
 だが「海河に網をひき釣をして世を渡る者」「野山に猪を狩り、鳥を捕りていのちを繋ぐ輩」「商をし田畠を作りて過ぐる人」生きること、耐えることとが同時であるような生き方をしている人達、社会からもと呼ばれ、悪人と呼ばれ、人間以下にあつかわれて来た人達、更には、五戒を保てぬ生き方をして、仏道からも見捨てられていた人達の心の奥にうごめいていた悲願は何であったか。その悲願こそ仏陀を生んだ精神ではなかったか。
 吉水教団の弾圧をした南部北嶺を代表する仏教は仏意にかなったものではなかった。そして師法然の一生の仕事は何であったかを思惟しながら、流人の身として辺鄙の郡類の生活そのただ中で顕らかにしようとする宗祖であった。
 そのたしかめの道として、いつのまにか、宗祖は非僧非俗、愚禿釈親鸞と名告った。その名告りの内実は何を意味していたのか、居多ケ浜の海は呼びかけている。】(石川正生氏 『真宗』昭和47年6月号ページ6より)