8月19日
ソースカツ丼 380円
本3 1100円
冊子 40円
数珠修理代(5本) 2200円
本3 700円
晩飯 800円
温泉マッサージ 1000円
サロンパスみたいなもん 733円
発泡酒 175円
ところてん 68円
合計 7196円
8月累計 126784円
今日は帰るだけなので、起きて金沢別院に御土産買いに行く。昨日買った以外にもあるやろうし。
で、
『お盆』の冊子
『平野修 真宗の教化』
『和田稠 遇いがたくして今』
『和田稠 流罪と靖国』
を購入して上方へ。首位まで2.5ゲーム差の上方へ。
こら、北陸、越の国の人達。塩辛いぞ。塩分濃度高いぞ。腎臓大丈夫か?腎臓。っちゅうか、元々そうやったら大丈夫なんかもしらんが。
京都によって数珠修理の受け取り。本山にお参りして、ついでに赤本(勤行本)と『古田和弘 宗祖親鸞聖人に遇う』『松野純考 いなかの人々と親鸞』を購入。
しんどいので速攻帰る。
しんどいので帰って晩飯を近所の食堂で喰って温泉へ。マッサージしながら仮眠。
んで、帰って来てこうやって家計簿書いてるわけやね。
今回の『新潟ラーメンツアー』で一番感じたのは『無駄』っちゅう事。
多分、新潟4大ラーメンは工夫をすればもっと美味しくなる。
だって地元の雑誌『こまち』とかいうののラーメン特集で大きく取り上げられていたのは当然の如く新しいラーメン。
大阪にもある。新しいラーメン。腕のエエ才能のあるラーメン職人さんが作り上げたラーメン。
「和食を本格的にやってました」
「フランス料理をやってました」
「イタリア料理を修行してました」
等々。
才能に溢れる若い職人さんが作り上げるラーメン。ラーメンという食を考え追求した人達が造るラーメン。
まあ、美味いわな。『美味いだけ』やな。
新潟でも大阪でも京都でも、どこでもそうかも知らんが、古くからある町のラーメン屋が老舗になる。ラーメンブームなんぞの以前から。そういう『ラーメンブーム』の中から御当地ラーメンが『発掘』される。
けど、そのラーメン屋は昔からあったりする。
最近のラーメン屋には無駄がない。洗練された味わいとでもいうのだろうか?『美味しい』を追求する。それは漫画『ラーメン発見伝』でもそうだ。『美味しい』を追求する。
でも、ラーメンは所詮ラーメンだ。獣の骨を煮込んでナンボのもんでっせ。才能の溢れる『料理人』が造る『美味しい』を研究したラーメンと御当地ラーメンとではチト違う。
それは『無駄』ではないのか?
多分、純粋に『美味しいもの』を追求したら今回喰って来たラーメンの味も変わって行くのかもしれない。それはそれでアリなんだろうが、でも、『ラーメン』でっせ。
一杯500円、600円の食べ物。日常の食べ物。安心出来る食べ物。
御当地ラーメンっちゅうか、古くからある愛されたラーメンにはきっと『無駄』が沢山あると思う。それぞれのラーメンの個性を活かす為や、美味しさを追求したらならばその無駄を省いた方がエエのかも知れん。
でも、その『無駄』がそのラーメンの隠し味になって、ラーメンに深みを出している。
そんな気がする。
人生もそうじゃん。理想を求める。それはそれで素晴らしい。でも、無駄を造らない。無駄を省く。無駄を卑下する。無駄を馬鹿にする。
無駄な時間を過ごしている事を情けなく思う、感じる。
充実した『理想』を求める。無駄を憎悪する。
無駄な時間を今回の旅行ではホンマに沢山してきた。きっともっと能率よく廻る方法もあっただろうし、そういう情報を仕入れればよかったのかもしれん。
そうやって、あくせくアクセクする。
無駄を省く。自分の思い描く通りで生きて行く。所詮、『自分』だけ。自分が描いた自分だけ。
色んな所で色んなラーメンを食べつつ、そんな事を考えてたら帰りに読んでた『松野純考 いなかの人々と親鸞』の中で茶室の話が出て来た。しんどいので引用できんが、茶室は少しだけ散らかすらしい。完全に整備しないらしい。少し散らかす事によって客が安心出来るらしい。
まあ、『茶室』のそういうポリシーは好きではないが、『無駄』があった方がエエやん。
理想の味を追求して無駄を省いて行く。どんどん、どんどん理想を求める。でも、それは人間であったり、私であったりの理想。無駄を排除した味。確かに『美味しい』かも知れんが、感動は薄いぞ。無駄も含めてナンボやろ。それが御当地ラーメンとして永年愛され続けて来たラーメンの味やろ。
ソースカツ丼 380円
本3 1100円
冊子 40円
数珠修理代(5本) 2200円
本3 700円
晩飯 800円
温泉マッサージ 1000円
サロンパスみたいなもん 733円
発泡酒 175円
ところてん 68円
合計 7196円
8月累計 126784円
今日は帰るだけなので、起きて金沢別院に御土産買いに行く。昨日買った以外にもあるやろうし。
で、
『お盆』の冊子
『平野修 真宗の教化』
『和田稠 遇いがたくして今』
『和田稠 流罪と靖国』
を購入して上方へ。首位まで2.5ゲーム差の上方へ。
こら、北陸、越の国の人達。塩辛いぞ。塩分濃度高いぞ。腎臓大丈夫か?腎臓。っちゅうか、元々そうやったら大丈夫なんかもしらんが。
京都によって数珠修理の受け取り。本山にお参りして、ついでに赤本(勤行本)と『古田和弘 宗祖親鸞聖人に遇う』『松野純考 いなかの人々と親鸞』を購入。
しんどいので速攻帰る。
しんどいので帰って晩飯を近所の食堂で喰って温泉へ。マッサージしながら仮眠。
んで、帰って来てこうやって家計簿書いてるわけやね。
今回の『新潟ラーメンツアー』で一番感じたのは『無駄』っちゅう事。
多分、新潟4大ラーメンは工夫をすればもっと美味しくなる。
だって地元の雑誌『こまち』とかいうののラーメン特集で大きく取り上げられていたのは当然の如く新しいラーメン。
大阪にもある。新しいラーメン。腕のエエ才能のあるラーメン職人さんが作り上げたラーメン。
「和食を本格的にやってました」
「フランス料理をやってました」
「イタリア料理を修行してました」
等々。
才能に溢れる若い職人さんが作り上げるラーメン。ラーメンという食を考え追求した人達が造るラーメン。
まあ、美味いわな。『美味いだけ』やな。
新潟でも大阪でも京都でも、どこでもそうかも知らんが、古くからある町のラーメン屋が老舗になる。ラーメンブームなんぞの以前から。そういう『ラーメンブーム』の中から御当地ラーメンが『発掘』される。
けど、そのラーメン屋は昔からあったりする。
最近のラーメン屋には無駄がない。洗練された味わいとでもいうのだろうか?『美味しい』を追求する。それは漫画『ラーメン発見伝』でもそうだ。『美味しい』を追求する。
でも、ラーメンは所詮ラーメンだ。獣の骨を煮込んでナンボのもんでっせ。才能の溢れる『料理人』が造る『美味しい』を研究したラーメンと御当地ラーメンとではチト違う。
それは『無駄』ではないのか?
多分、純粋に『美味しいもの』を追求したら今回喰って来たラーメンの味も変わって行くのかもしれない。それはそれでアリなんだろうが、でも、『ラーメン』でっせ。
一杯500円、600円の食べ物。日常の食べ物。安心出来る食べ物。
御当地ラーメンっちゅうか、古くからある愛されたラーメンにはきっと『無駄』が沢山あると思う。それぞれのラーメンの個性を活かす為や、美味しさを追求したらならばその無駄を省いた方がエエのかも知れん。
でも、その『無駄』がそのラーメンの隠し味になって、ラーメンに深みを出している。
そんな気がする。
人生もそうじゃん。理想を求める。それはそれで素晴らしい。でも、無駄を造らない。無駄を省く。無駄を卑下する。無駄を馬鹿にする。
無駄な時間を過ごしている事を情けなく思う、感じる。
充実した『理想』を求める。無駄を憎悪する。
無駄な時間を今回の旅行ではホンマに沢山してきた。きっともっと能率よく廻る方法もあっただろうし、そういう情報を仕入れればよかったのかもしれん。
そうやって、あくせくアクセクする。
無駄を省く。自分の思い描く通りで生きて行く。所詮、『自分』だけ。自分が描いた自分だけ。
色んな所で色んなラーメンを食べつつ、そんな事を考えてたら帰りに読んでた『松野純考 いなかの人々と親鸞』の中で茶室の話が出て来た。しんどいので引用できんが、茶室は少しだけ散らかすらしい。完全に整備しないらしい。少し散らかす事によって客が安心出来るらしい。
まあ、『茶室』のそういうポリシーは好きではないが、『無駄』があった方がエエやん。
理想の味を追求して無駄を省いて行く。どんどん、どんどん理想を求める。でも、それは人間であったり、私であったりの理想。無駄を排除した味。確かに『美味しい』かも知れんが、感動は薄いぞ。無駄も含めてナンボやろ。それが御当地ラーメンとして永年愛され続けて来たラーメンの味やろ。