坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

風に吹かれて

2007年08月22日 | 坊主の家計簿
 8月22日

 雑費  チャリンコ修理      200円
     散髪          2000円
 食類  発泡酒          175円
     レモン果汁3       204円
     むき海老         229円
     麻婆豆腐の素       100円

 合計              2908円
 8月累計          130558円

 仕事終わって散髪行ったら終了。ムチャしんどいので「よっしゃ、このまま朝まで寝たろ」と密かに決意する。
 んが、22時前から大阪嵐。雷が大変で寝てる場合やないっちゅうねん。ピカピカするし、ごろごろドッカーン!やし、煩い、っちゅうねん。

 しかし、頭が回っとらんのぉ。。。やっぱし4泊5日で夏休み全部を旅行に使ったのは「年齢を考えろ」っちゅう感じやな。

 チャリンコのチェーンを散髪してる間に交換してもらおうと近所のチャリ屋に行く。チェーンが伸びてるだけやなく明らかに曲がってるし、よく外れまんねん。
 チャリ屋の兄ちゃん。作業中の手を止めてくれて私のチャリンコを諸々いじる。どうやらクランク(両ペダルの間)が欠けてるかも解らん、との診断結果だったのだが、なんとかチェーンを直してくれて、「これでダメやったらクランク交換して下さい」との事。
 料金を払おうとしたら「200円です」との事。
 「え?」と思いつつ、「悪いなぁ。。。」と思いつつ、ちと感動する。エエ仕事してまっせ、兄ちゃん。

 私が普段やっているのは『仏事』である。仏事なんだが、お盆が象徴的な様に非常に謎の儀式でもある。当然、色々と説明したりもするのだが、あんまり伝わっているとも思えない部分が多々ある。

 仏壇(お内仏)を受け継ぐのは多くの場合長男の嫁である。決して『長男』ではない『長男の嫁』である。
 で、この『長男の嫁』が独立していたら問題ないのだが、多くの場合はあり得ない。『親戚の嫁』という人達が居る。当然、煩い。あれやこれやと色々と口出しする。

 東西本願寺と云うが、東西本願寺でも少し違う。『公式』っちゅう部分で違う。端的に焼香の仕方すら違う。でも「同じ門徒」である。
 
 「うちでは仏壇はそんな風にせえへんで」
 「お盆には・・・・・」
 「葬儀には・・・・・」
 「法事には・・・・・」
 等々。

 聞かれる私。もう、「宗教が違いまんねん」としかいいようがないのだが、長男の嫁の苦労はそれだけではすまない。「うちに来る坊さんがこういうてた」だけで済む話なら問題ないんだろうが、「うちは真宗大谷派やねん」だけで済む話なら問題ないんだろうがそうとも行かない。
 特に大阪は色んな地方から来られた方々も沢山居られる。色んな宗派がごっちゃぐちゃになっている。それが仏事にモロ出る。

 私は色々と説明した後、「でも、それぞれの家の風習ってあるでしょ?色々と云われるでしょ?」と逃げ、「でも、次に伝える時はちゃんと伝えて下さいね。」と逃げる。

 恩師からの宿題が『服忌』だった事もあって(当然まだやってません。。。)、『お盆』がいつも以上に気になる。極論でいうと真宗仏教には一切関係ない。というか、ほぼ仏教全般に関係ない。
 なんだが、そんな事は机上の空論である。事実深く根付いてるんだし。

 ふと、流罪親鸞に想いを馳せる。当然、当時とは状況が全然違う。

 恩師が以前に面白い事を云ってた。「伝わらなかったら新しい課題を頂いたのだ」と。

 そういう課題が山積みである。山積みになると逃げたくなる。「かないまへんで」と。「無理でっせ」と。「どないしまんねん。」と。

 ふと、違う恩師が「私はノロマな亀です。亀は亀なりのすこしずつ歩んで行きたいと思います」と云ってた事を思いだす。

 話は飛ぶのだが、終戦の日は何故8月15日だったのか?厳密にいうと玉音放送が流された日であり、今日私達が『終戦の日』と呼んでいる8月15日。
 終戦当時の『お盆』が今みたいに8月15日が一般的であったのかどうかはまだ調べていない。
 んが、今日8月15日が『お盆』であり、『終戦の日』である事に妙な想像が頭をよぎる。
 「日を選びやがったな」と。
 『お盆』と『終戦の日』は余りにも似合い過ぎる。日を選んだのであればある意味正解だったのかも知れん。『お盆の御先祖』に戦争で亡くなられた方々も居られるのだから。

 旅行中にラーメン屋か居酒屋で読んでた新聞に霊に関するアンケート結果が掲載されていた。『お盆に霊は帰ってくるのか?』とかいう感じ。新潟のローカル新聞でのアンケート調査。
 数字はうる憶えなんだが、確か400人ぐらいが「戻って来る」と。100人ぐらいが『戻って来ない』と。『千の風』の流行から来るアンケート調査だったらしい。

 漠然とした宗教観が漠然と固定化されて漠然と受け継ぎ伝えられて漠然と固定化される。そこからまた新しい宗教が生まれて来る。
 日本は神道と仏教という今日からの視点でみると全く正反対のものが一緒であった時代の方が長い。そこに儒教やら何やらがゴッチャになって居る。
 だからといって排他的な原理主義は好きではない。あれは他人を馬鹿にしているだけだ。

 
 【吉水教団の弾圧をした南部北嶺を代表する仏教は仏意にかなったものではなかった。そして師法然の一生の仕事は何であったかを思惟しながら、流人の身として辺鄙の郡類の生活そのただ中で顕らかにしようとする宗祖であった。
 そのたしかめの道として、いつのまにか、宗祖は非僧非俗、愚禿釈親鸞と名告った。その名告りの内実は何を意味していたのか、居多ケ浜の海は呼びかけている。】(石川正生氏 『真宗』昭和47年6月号ページ6より)

 お盆等の仏事。それぞれの意見の中に私の意見もある。