英の放電日記

将棋、スポーツ、テレビ等、日々感じること。発信というより放電に近い戯言。

『八重の桜』 第38話 「西南戦争」(おそらく、レビューは最終回)

2013-09-22 20:09:55 | ドラマ・映画
嗚呼、田原坂…………~交錯する戊辰の武士(志士)たちの思い~
山川浩、佐川官兵衛、藤田五郎
 ………会津の名誉を取り返さん、薩摩(新政府)への恨みを晴らさん(山川)
 ………戦で斬り合って、武士として死ねるのは本望(佐川)

西郷隆盛
 ………維新時に生じた怒り、恨み、悲しみを全て抱えて持っていこうとした
 
使い捨てにされた武士たちの怒り、会津の怨念などを西南戦争で昇華させるのが、自分の贖罪だと考えた。

印象に残るのは、
「可笑しなもんだ。十年前、賊軍として追われた俺たちが、今は官軍だ。
 官だの賊だの…どうでもよい。
 武士はただ、死に物狂いに戦う場がいい。
 望みは叶った。戦場で斬り死にできる………ありがてえ……


西郷も武士でありたかったのだろう。

山川と対峙の場で
 会津を人柱にして新しい日本を起こし、西南戦争でその決着を着けた。
 (戊辰戦争時とは、薩摩と会津の立場が逆転しているのも、皮肉な縁。山川も西郷の真意を知り、やるせなさを感じた様子)

木戸孝允、大久保利通、大山巌
 維新の志士たちも、西郷の真意を分かっていた。

「膿みを出し尽くす。……これは維新の総仕上げじゃ」
(木戸)
 木戸……病にて西南戦争の終結を待たずに、病死
 大久保……西南戦争の翌年、暗殺される
 大山……西郷の意を汲み、兄同然の西郷を討つ

違和感バリバリの八重の言葉
「日本人同士が、また銃を撃ちあうなんて」(西南戦争勃発を知り)
「また戦が始まった。会津を滅ぼしてまで、新しい国を作ったはずなのに。戦をしなければならぬ訳が、真にあんのか?
 答えを探すには学問が要ると思うのです」(襄との会話で)
「この戦、いつまで続くんだ」(“山川、囲みを打ち破り熊本城に入城を果たす”の新聞を読み)

と、呟くが、会津戦争後の八重の葛藤や心の整理が充分に描かれていないので、八重の言葉に違和感を拭えない。

 今話の最後に、同志社女学校の意気盛んな娘らを描いたのは、西南戦争の余韻をぶち壊し!
 覚馬と西郷の回想シーンで締めてほしかった。


【ストーリー】番組サイトより
 1877(明治10)年2月、八重(綾瀬はるか)は襄(オダギリジョー)と共に、新築された同志社英学校の校舎で備品の準備に追われていた。
 そのころ鹿児島では、西郷隆盛(吉川晃司)が配下の不平士族らの決起を止められずに挙兵。「西南戦争」の幕が切って落とされる。政府軍に仕官した山川浩(玉山鉄二)や、警視庁の佐川官兵衛(中村獅童)や藤田五郎(=斎藤一・降谷建志)も参戦。激戦地・田原坂で進退窮まった政府軍の大山巌(反町隆史)は、官兵衛と藤田を抜刀隊に選抜し、従兄弟である西郷に戦いを挑む。
コメント (2)
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静岡県知事の馬鹿な発言

2013-09-22 12:57:03 | 時事
 静岡県の川勝平太知事は9日の定例記者会見で、2013年度の全国学力テストで小学国語Aの成績が全国最下位だった結果を受け、成績が悪かった順に100の小学校の校長名を公表したいとの意向を示した。

 川勝知事は理由を「子どもに責任はないということを明確にするため」と説明。「最低というのは教師の授業が最低ということ。教師は大人なので責任を持ってもらい、反省材料にしてほしい」と述べた。

 国の実施要領では各都道府県の教育委員会に市町村名や学校名を公表しないよう求めている。

(共同)
『中日新聞/CHUNICHI Web』記事より

 記事タイトルのような表現は好ましくないとは思っているが、使わずにはいられないような発言である。

 この発言、いろいろな問題を感じて、まとめにくさこの上ない。仕方ないので、問題の構造上に沿った話の展開はならないが、思った順に書いていきたい。(単純に呆れていたのだが、知事の発言の突っ込みを考えていくうち、あれこれ突っ込み所が湧いてきて、まとまらなくなってしまった)

1.目的が正しくて、手段が違法でなければ、その行為が及ぼす結果や影響を考えなくていいのか? この命題、刑事ドラマでよく出てくる。
 「被害者が極悪人でも、殺人という行為は許されない」、また、「一般的に悪いことでも、法で規制されていなければ合法である」 というような論理であるが、今回の知事の発言は、相当な低レベル、子どもの口喧嘩を思わせる詭弁である。
 知事の目的は、好意的な解釈をすれば「静岡県の学力レベルの向上」であり、その手段として、「成績が悪かった順に100の小学校の校長名を公表する」である。
 この行為(手段)が学力向上につながるかは次項以下に回すとして、その行為が及ぼす結果として、「公表された校長(学校)は無能(学力が低い)」と認識されることになる。
 そういう評価を覆すために、その学校が頑張るという効果は得られるかもしれないが、悪影響も少なからず考えられる。文科省もこの辺を考えて公表しないよう求めているわけだが、この知事は校長を叱咤激励する(罵る)ことで、効果が出ると考えているようだ。
 悪影響については考慮しなかったのだろうか?考えはしたが、「学力向上>悪影響」とかんがえたのか、知事自身が主張した「学校名を公表するのではなく、校長名を公表する」だけと考えたのかもしれない。
 知事自身の発言なのに「かもしれない」と表現したのは、あまりにも短絡的な思考だったので、とても本気には思えないからである。情報社会の現代において「校長名=学校名」なのは明らかで、本気で学校名の公表に繋がらないと考えていたとしたら、本当に馬鹿で、この知事を選んだ静岡県民の常識も疑いたくなる。
 また、単なる詭弁だとしたら、これはこれで、知事の人格が最低で、こんな知事を選んだ県民の常識を疑いたくなってしまう。うまい例えになっているかは疑問だが、「首は(直接)絞めていない。ただ、紐を首に巻きつけて両側に引っ張っているだけだ」と言い逃れしているようなもので、まさに、小学生の口喧嘩のレベルである。

2.もっと効果的な方法があるだろう
 賞罰でレベル向上を図るなんて、体罰と同レベルの原始的で楽をする方法である。
 学力レベルが校長の実の責任かと言う議論も次項以降に回すが、学力レベルの責任を校長に追わせるとするならば、成績の悪かった校長と面談をする、あるいは、「何故成績が悪かったか」というテーマのレポートを校長の直筆で提出させた方が効果があるはずだ。

3.学力レベルは校長の責任なのか?
 もちろん責任の一端は校長にもある。しかし、児童(生徒)自身の資質や努力、家庭環境、教員1人当たりが受け持つ児童数まどの学校環境、学校の教育環境(教員採用の際の志願者の資質を見極める目なども含む)を整える県教委など多くの要素が考えられる。
 一般に、家庭の所得と学力は相関関係(所得が高ければ、学力も高い)があるというデータが出ている。上記で述べた教育環境や県民所得を担う総責任者は知事である。
 「学力が低いのは知事のせいだ」と言える。学力が低いのを校長の責任にして罵る前に、県政を顧みる必要があるはずだ。

4.学校に求められるのは学力だけなのか?
 いじめ問題など、子どもの人格形成(他人を思いやる心、くじけない心など)など、大切なことは他にもたくさんあるはずだ。(もちろん、家庭の責任が大きい)
 学力だけを取り上げて評価を下すというのは、如何なものだろうか?


 静岡県民の皆さん、さっさとリコールしてはいかがでしょうか?
コメント (10)
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