前半部分は面白かった
それぞれの思惑
清盛……福原の港の整備を進めるが、重盛の清い心を思い案じる
後白河院……清盛の真意に気づき、対抗するため出家し法皇となる
重盛……平家の棟梁を任されるが、現正妻の実子ではないことに負い目を感じる
滋子……平家と後白河院の後ろ盾で健春門院となり、豪胆な性格と権勢を増す。平家より我が子・高倉帝と後白河院が大事?
宗盛・時忠……滋子の力が増すことで、野心も大きくなっていく
成親……相変わらずの八方美人ぶり。誠実な義弟・重盛を小者と蔑む
頼朝……相変わらず呆けているのみ
遮那王……世俗には関わらず、すくすくと育つ。忍者のように素早く動ける
頼盛……先週、あれだけ悩み、清盛と今後を誓ったのに、ほとんど出番なし
後半部分は不満
尾張の役人が神人と衝突したことによる騒動だが、その詳細は、他の熱心で高等なブログの方々に譲るとして(手抜きです)、後白河法皇の圧力、義兄・成親への義理、平家一門を統率する義務、真意を掴みづらい清盛の指示などの板挟み会う重盛……
棟梁の座に就いた重盛だが、実質的のトップは清盛で、その清盛が六波羅にいないので、他の平家の一門には清盛の指示や心づもりはまったく見えないので、重盛の頼りなさや不可解さしか感じられないのは、気の毒であった。
窮地に陥る重盛とは対照的に、颯爽と現れ解決し、その巨人ぶりを発揮する清盛。遠き地にいて、辛い思いは重盛に押しつけ、おいしいところだけさらっていくのは、あんまりなんじゃない?
清い心の重盛を心配するのなら、もう少し、苦しい立場の重盛をフォローしてやれよ。盛国も殿(清盛)に見惚れるだけでは駄目じゃないか!
清盛は、頭領の座を譲った方が自由に動けて都合がよいが、形だけの頭領の重盛は辛いだけ。
清盛の巨人ぶりを描くための脚本(清盛が指示を出し、重盛が従うという設定)だが、清盛が棟梁の座を譲り、都を離れるという史実と、清盛がドラマの主人公であるという二つの条件を満たすには仕方がないが、やはり、無理を感じる。
あと、この脚本家さんの好みかもしれないが、最後に奥の手や切り札を出して、どんでん返しというパターン、ちょっと飛躍があり過ぎて、あまり好きではない。
【ストーリー】番組サイトより
京の鞍馬寺では、源義朝の子・遮那王(神木隆之介)が修行に励んでいた。この遮那王こそ、後の義経である。遮那王の母・常盤(武井咲)はあえて遮那王に自分の父が源義朝であることや、平清盛(松山ケンイチ)が父の敵であることを教えていなかった。それは遮那王を戦乱にまきこまないための配慮だった。
1169年清盛は福原(神戸)の別邸に後白河上皇(松田翔太)を招き、千僧供養をおこなった。大勢の僧たちの中心には、僧侶たちを束ねる導師・比叡山延暦寺の明雲(腹筋善之介)がいた。後白河上皇は、明雲と清盛の関係が突然、親密になったことを不審に感じていた。
清盛は大輪田泊の改修に本腰を入れるため、福原に移住。京の留守は任せたと、嫡男・重盛(窪田正孝)に平家の棟梁の座を譲り渡す。後白河上皇の近臣・藤原成親(吉沢悠)は平家の内情を探るため、義弟である重盛と酒をくみ交わした。重盛は自分が清盛の正室・時子(深田恭子)の実の子でないため、平家の棟梁として認めない者もいるはずだと不安がっていた。成親は重盛を励ましつつも、重盛の気弱な一面を冷ややかに見つめていた。
4月、時子の妹であり、後白河上皇の妃・滋子(成海璃子)は院号宣下を受け、建春門院となった。朝廷での建春門院の力は著しく増し、その兄・時忠(森田剛)や甥・宗盛(石黒英雄)が院の司に任じられるなど重用された。建春門院が時忠、宗盛らを集めて開いた酒宴の席で、建春門院の豪快な飲みっぷりを見て、時忠は宗盛にもっと自信をもつようささやく。建春門院の姉・時子こそが宗盛の母であり、宗盛こそが平家の嫡流と時忠は説いた。
福原の別邸では兎丸(加藤浩次)が大輪田泊の工事の難しさを話していた。清盛は先例がない工事だとあきらめるのかと挑発すると、兎丸たちは発奮して工事に向かった。清盛は海のことは兎丸に任せ、平家を重盛に任せたわけだが、心の奥で重盛の潔癖すぎる性格を危ぶんでもいた。
一方、伊豆では、頼朝(岡田将生)のことを気にかける政子(杏)が遠巻きに彼を見ていた。以前、もののけと勘違いして頼朝を網でとらえたとき、彼は怒るどころか自分を殺してくれと頼む始末だったのだ。しかしそんな政子を父・時政(遠藤憲一)が見とがめ、頼朝の正体も知らせず、二度とここへ近づかないようくぎをさした。
6月、後白河上皇は出家し、法皇となった。その戒師(かいし)に選ばれたのは園城寺(おんじょうじ)の僧たちであった。今まで帝や上皇が出家する際には比叡山延暦寺の僧が戒師をつとめていた。後白河は延暦寺をけん制するために、延暦寺と対立してきた園城寺をあえて選んだのである。これに反発した延暦寺の明雲たちは後白河法皇をやりこめる機会をうかがっていた。そこへ成親の知行国・尾張の役人が、比叡山延暦寺と関係を持つ寺社と衝突する事件が起きる。
対策をねる藤原摂関家や時忠ら公卿たち。そこへ後白河法皇があらわれ、成親を擁護し、悪いのは寺社側であると断罪した。ここぞとばかり明雲が率いる延暦寺の僧兵は、後白河の裁断に意義を申し立て、成親の流罪を訴えて京に押し寄せる。しかも、神輿(しんよ)をかついだ僧兵たちが向かったのは、後白河法皇のいる法住寺殿ではなく幼き高倉天皇がいる内裏であり、騒然となる。そのまま内裏にいすわる明雲たちと後白河法皇の攻防はこう着状態を迎え、公卿たちの議定も混迷した。
重盛は義兄である成親を守るため、出陣の準備をしていたが、福原の清盛から議定の結論にかかわらず兵を絶対動かすなという伝言が届く。比叡山延暦寺とのかかわりを良好に保つことが大事であり、この一件をうまく操ることで、平家の力を後白河法皇に思い知らせる良い機会だという理由だった。長引く議定に業を煮やした法皇は、重盛に兵を動かすよう命じたが、清盛のいいつけを守る重盛はこれを断る。結局、追いつめられた法皇は、延暦寺に屈し、成親を流罪にした。義兄を救えなかった重盛は館へ帰ると、妻であり成親の妹である経子(高橋愛)に謝罪するが、経子は何も聞かずに重盛をねぎらった。
だが、納得できない後白河法皇は成親を呼び戻し、代わりに時忠に罪をかぶせて、流罪を命じる。平家と比叡山に怒りをぶつけたのだ。平家一門としては、時忠の流罪は受け入れがたいが、成親との義理もあり後白河に抗議もできない。比叡山延暦寺は再び強訴をおこそうとし、重盛は苦境に追い込まれる。事情を知った清盛は、福原に重盛と頼盛(西島隆弘)を呼び、六波羅に集められるだけの兵を集めるが決して動くなと命じた。
父の言いつけのとおり、重盛が館に多数の兵を集めると、後白河法皇や藤原摂関家の者たちは不安を感じて六波羅に集まってくる。思わぬ事態に重盛が動揺しているところに、清盛が福原からあらわれた。後白河は清盛に兵の意味を問い詰めるが、清盛は武家館に兵が集まり調練するのは日常のこととかわし、自分はこれから比叡山に登山にいくところだととぼける。こうした清盛の態度に、なみなみならない凄みを感じた後白河は、裁断を覆し、時忠の流罪を解き、成親は流罪は免れたものの官職を奪われた。結果的に一番の罰をおわされた成親は、平家を恨むようになる。
のちに嘉応(かおう)の強訴といわれた一連の出来事は天下に清盛が欠かせぬことを示したが、裏を返せば清盛がいなければ何もできない平家に弱点があることもあらわにしたのである。
それぞれの思惑
清盛……福原の港の整備を進めるが、重盛の清い心を思い案じる
後白河院……清盛の真意に気づき、対抗するため出家し法皇となる
重盛……平家の棟梁を任されるが、現正妻の実子ではないことに負い目を感じる
滋子……平家と後白河院の後ろ盾で健春門院となり、豪胆な性格と権勢を増す。平家より我が子・高倉帝と後白河院が大事?
宗盛・時忠……滋子の力が増すことで、野心も大きくなっていく
成親……相変わらずの八方美人ぶり。誠実な義弟・重盛を小者と蔑む
頼朝……相変わらず呆けているのみ
遮那王……世俗には関わらず、すくすくと育つ。忍者のように素早く動ける
頼盛……先週、あれだけ悩み、清盛と今後を誓ったのに、ほとんど出番なし
後半部分は不満
尾張の役人が神人と衝突したことによる騒動だが、その詳細は、他の熱心で高等なブログの方々に譲るとして(手抜きです)、後白河法皇の圧力、義兄・成親への義理、平家一門を統率する義務、真意を掴みづらい清盛の指示などの板挟み会う重盛……
棟梁の座に就いた重盛だが、実質的のトップは清盛で、その清盛が六波羅にいないので、他の平家の一門には清盛の指示や心づもりはまったく見えないので、重盛の頼りなさや不可解さしか感じられないのは、気の毒であった。
窮地に陥る重盛とは対照的に、颯爽と現れ解決し、その巨人ぶりを発揮する清盛。遠き地にいて、辛い思いは重盛に押しつけ、おいしいところだけさらっていくのは、あんまりなんじゃない?
清い心の重盛を心配するのなら、もう少し、苦しい立場の重盛をフォローしてやれよ。盛国も殿(清盛)に見惚れるだけでは駄目じゃないか!
清盛は、頭領の座を譲った方が自由に動けて都合がよいが、形だけの頭領の重盛は辛いだけ。
清盛の巨人ぶりを描くための脚本(清盛が指示を出し、重盛が従うという設定)だが、清盛が棟梁の座を譲り、都を離れるという史実と、清盛がドラマの主人公であるという二つの条件を満たすには仕方がないが、やはり、無理を感じる。
あと、この脚本家さんの好みかもしれないが、最後に奥の手や切り札を出して、どんでん返しというパターン、ちょっと飛躍があり過ぎて、あまり好きではない。
【ストーリー】番組サイトより
京の鞍馬寺では、源義朝の子・遮那王(神木隆之介)が修行に励んでいた。この遮那王こそ、後の義経である。遮那王の母・常盤(武井咲)はあえて遮那王に自分の父が源義朝であることや、平清盛(松山ケンイチ)が父の敵であることを教えていなかった。それは遮那王を戦乱にまきこまないための配慮だった。
1169年清盛は福原(神戸)の別邸に後白河上皇(松田翔太)を招き、千僧供養をおこなった。大勢の僧たちの中心には、僧侶たちを束ねる導師・比叡山延暦寺の明雲(腹筋善之介)がいた。後白河上皇は、明雲と清盛の関係が突然、親密になったことを不審に感じていた。
清盛は大輪田泊の改修に本腰を入れるため、福原に移住。京の留守は任せたと、嫡男・重盛(窪田正孝)に平家の棟梁の座を譲り渡す。後白河上皇の近臣・藤原成親(吉沢悠)は平家の内情を探るため、義弟である重盛と酒をくみ交わした。重盛は自分が清盛の正室・時子(深田恭子)の実の子でないため、平家の棟梁として認めない者もいるはずだと不安がっていた。成親は重盛を励ましつつも、重盛の気弱な一面を冷ややかに見つめていた。
4月、時子の妹であり、後白河上皇の妃・滋子(成海璃子)は院号宣下を受け、建春門院となった。朝廷での建春門院の力は著しく増し、その兄・時忠(森田剛)や甥・宗盛(石黒英雄)が院の司に任じられるなど重用された。建春門院が時忠、宗盛らを集めて開いた酒宴の席で、建春門院の豪快な飲みっぷりを見て、時忠は宗盛にもっと自信をもつようささやく。建春門院の姉・時子こそが宗盛の母であり、宗盛こそが平家の嫡流と時忠は説いた。
福原の別邸では兎丸(加藤浩次)が大輪田泊の工事の難しさを話していた。清盛は先例がない工事だとあきらめるのかと挑発すると、兎丸たちは発奮して工事に向かった。清盛は海のことは兎丸に任せ、平家を重盛に任せたわけだが、心の奥で重盛の潔癖すぎる性格を危ぶんでもいた。
一方、伊豆では、頼朝(岡田将生)のことを気にかける政子(杏)が遠巻きに彼を見ていた。以前、もののけと勘違いして頼朝を網でとらえたとき、彼は怒るどころか自分を殺してくれと頼む始末だったのだ。しかしそんな政子を父・時政(遠藤憲一)が見とがめ、頼朝の正体も知らせず、二度とここへ近づかないようくぎをさした。
6月、後白河上皇は出家し、法皇となった。その戒師(かいし)に選ばれたのは園城寺(おんじょうじ)の僧たちであった。今まで帝や上皇が出家する際には比叡山延暦寺の僧が戒師をつとめていた。後白河は延暦寺をけん制するために、延暦寺と対立してきた園城寺をあえて選んだのである。これに反発した延暦寺の明雲たちは後白河法皇をやりこめる機会をうかがっていた。そこへ成親の知行国・尾張の役人が、比叡山延暦寺と関係を持つ寺社と衝突する事件が起きる。
対策をねる藤原摂関家や時忠ら公卿たち。そこへ後白河法皇があらわれ、成親を擁護し、悪いのは寺社側であると断罪した。ここぞとばかり明雲が率いる延暦寺の僧兵は、後白河の裁断に意義を申し立て、成親の流罪を訴えて京に押し寄せる。しかも、神輿(しんよ)をかついだ僧兵たちが向かったのは、後白河法皇のいる法住寺殿ではなく幼き高倉天皇がいる内裏であり、騒然となる。そのまま内裏にいすわる明雲たちと後白河法皇の攻防はこう着状態を迎え、公卿たちの議定も混迷した。
重盛は義兄である成親を守るため、出陣の準備をしていたが、福原の清盛から議定の結論にかかわらず兵を絶対動かすなという伝言が届く。比叡山延暦寺とのかかわりを良好に保つことが大事であり、この一件をうまく操ることで、平家の力を後白河法皇に思い知らせる良い機会だという理由だった。長引く議定に業を煮やした法皇は、重盛に兵を動かすよう命じたが、清盛のいいつけを守る重盛はこれを断る。結局、追いつめられた法皇は、延暦寺に屈し、成親を流罪にした。義兄を救えなかった重盛は館へ帰ると、妻であり成親の妹である経子(高橋愛)に謝罪するが、経子は何も聞かずに重盛をねぎらった。
だが、納得できない後白河法皇は成親を呼び戻し、代わりに時忠に罪をかぶせて、流罪を命じる。平家と比叡山に怒りをぶつけたのだ。平家一門としては、時忠の流罪は受け入れがたいが、成親との義理もあり後白河に抗議もできない。比叡山延暦寺は再び強訴をおこそうとし、重盛は苦境に追い込まれる。事情を知った清盛は、福原に重盛と頼盛(西島隆弘)を呼び、六波羅に集められるだけの兵を集めるが決して動くなと命じた。
父の言いつけのとおり、重盛が館に多数の兵を集めると、後白河法皇や藤原摂関家の者たちは不安を感じて六波羅に集まってくる。思わぬ事態に重盛が動揺しているところに、清盛が福原からあらわれた。後白河は清盛に兵の意味を問い詰めるが、清盛は武家館に兵が集まり調練するのは日常のこととかわし、自分はこれから比叡山に登山にいくところだととぼける。こうした清盛の態度に、なみなみならない凄みを感じた後白河は、裁断を覆し、時忠の流罪を解き、成親は流罪は免れたものの官職を奪われた。結果的に一番の罰をおわされた成親は、平家を恨むようになる。
のちに嘉応(かおう)の強訴といわれた一連の出来事は天下に清盛が欠かせぬことを示したが、裏を返せば清盛がいなければ何もできない平家に弱点があることもあらわにしたのである。