布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

本多田中藩と柏市民との付き合い

2007-03-16 | 歴史
富勢村誌(柏市史 資料編1)によると、田中藩本多氏は所領四万石で雁間詰譜代大名にして、上屋敷は数奇屋橋内にあり、中屋敷は烏森二条町、下屋敷は市谷新東村にあったとのこと。
本拠地の藤枝市にあった田中城はまさに田んぼの中にあって、今はその城跡には小学校が建っている。本多家の家紋の正紋は本多立ち葵、副紋は本の字だそうです。さて、田中藩本多家の菩提寺についてであるが、本多家にとって飛地にある柏市の布施弁天は、祈願寺で、先祖の菩提寺ではないことは以前にも記しています。その菩提寺について調べていたら、前記の富勢村誌によると浅草東本願寺であるとされています。そこで、この浅草東本願寺について紹介します。浅草東本願寺は、浄土真宗東本願寺派で、宗祖は親鸞聖人で、開基は教如上人。ご本尊は、木造阿弥陀如来立像で,これは、慶長14年(1609年)徳本寺から譲られた,高さ91cm,寄木造りで玉眼入りの鎌倉時代の作品といわれている。1591年に教如上人は江戸神田に江戸御坊光瑞寺を開いたが、明暦三年(1657年)の大火で、浅草に移転したので、その後浅草本願寺・浅草門跡と称されるようになる。本堂は、大正12年(1923年)に関東大震災により焼失した後、昭和14年(1939年)に再建される。それ以降、浅草東本願寺は、度々の改称をしているが、それは割愛するが、平成の時代に作られた茨城県牛久市にあるいわゆる牛久観音が、この宗派に属していることを付け加えます。
一方、地元静岡県藤枝市にある同じ宗派の蓮生寺に、累代の田中藩主の墓があるという。私は、これを田中城下屋敷写真展「田中藩士と菩提寺」開催期間:2005年07月30日~2005年08月31日のHPを見て知ったのです。しかし、東京の浅草東本願寺と地元の蓮生寺の、菩提寺としての関係は、今のところ調べがついていません。
布施弁天が関東三弁天といわれ、繁栄できたのは、当時の大名であるこの本多侯や地元名主の後藤氏、江戸の篤信家の古家氏等々の人々の並々ならぬ庇護と地元の人々の現世ご利益への厚い信仰心に支えられていたことはいうまでもない。これらの土台が、明治以降なくなり、今日に至っているが、こうした庇護の環境を再度作り上げることは今は、時代が違い望むべきはないでしょう。
これまた、最近知ったことですが、藤枝市にある田中城史跡案内ボランティアグループが、柏市の田中藩と関係のあった自治会(多分代官所のあった田中地区か藤心地区)と今でも交流しているそうです。しかし、布施弁天及び弁天と関係ある町会等と、藤枝市の田中藩の関係者との交流という話は聞いたことがありません。布施弁天とは、本多家や田中藩の人々にとってなんだったんでしょうかね。1674年から1868年の約200年間に、布施弁天と弁天様の地元の人々は、一体、何を作り上げてきたのでしょうかね。
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芭蕉⇒嵐雪⇒麦秋⇒嘯花⇒藤月

2007-03-15 | 歴史
江戸期の俳壇は、芭蕉(1644年~1694年)の門弟、いわゆる「芭門十哲」が主流を占め、十哲の一人の其角(1661年~1705年)には「玉つばき ひるもうでけり 布施こもり」という句があります。芭蕉が布施弁天に来たという説があるが、真偽は不明。布施弁天に「松涼し 利根の大河も 下流れ」という句碑があるようですが、確認出来ません。さて、この十哲の一人に服部嵐雪(1654年~1707年)という人がいます。この人の句で有名なのが「梅一輪一輪ほどの暖かさ」ですが、彼は雪門という俳門を立ち上げ、雪中庵を号する。この雪門がどうやら布施弁天の境内にある句碑群と関係が大いにある。雪中庵三世の大島蓼太も有名で、「世の中は三日見ぬ間の桜かな」という句を詠んでいます。そして、四世は大島完來で、その弟子筋にあたるのが松暁庵麦秋(生没は不詳)で、彼の句碑が弁天境内にある。「闇に寝た 眼を曙の さくらかな」の句碑がそうです。そして、麦秋が、布施村のろうそくや彦兵衛こと中尾嘯花(1761年~1849年)の師匠筋にあたります。さらに布施弁天境内に「松涼し 利根の大河も 下流れ」という句碑がある藤月は、その嘯花の弟子です。面白いことに、この藤月は、布施弁天(1674年)を初めてこの亀甲山に祀った後藤又右衛門の末裔なのです。また、以前にも書いたことがありますが、布施弁天の庇護者本多侯の江戸にいる家老をはじめとして家来は、雪門系。しかも、本多正温の六男正福は、桐棲と号していたほどの俳句好き。こうしたことを見れば、当時の布施弁天の経済的繁栄をバックに、布施村が村をあげて、俳句に取り組んでいた様子をうかがい知ることが出来ます。文化水準の高さがわかります。残念なのは、布施弁天の衰退とともにこの文化活動自体も消えてしまったことです。
なお、あけぼの山に「米撒も罪ぞよ鶏がけ合ぞよ」という句碑がある小林一茶は葛飾派であり、松戸の馬橋の立砂こと大川平右衛門とは同門。立砂は、今日庵山田元夢の弟子。そういうことで、一茶と嘯花は同門でなく、単なる俳友であったようです。墨田区の要津寺には、雪中庵の俳人によって建てられた芭蕉、嵐雪等を含めた「雪中庵関係石碑群」(写真)がある。
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古代相馬郡の中心地論争について

2007-03-14 | 歴史
大化改新(645年)後、下総国が成立し、11郡(葛飾・千葉・印旛・匝瑳・下海上・香取・埴生・相馬・猿島・結城・豊田)に別れ、柏市の布施から我孫子市にかけては「下総国倉麻郡(相馬郡)」に属していたと思われる。郡には郡衙が置かれ、班田や徴税の管理に重要な任務を果たし、律令制度下の中央集権的行政の末端に位置した。延喜式では591郡が在ったとされる。郡の下に郷、郷の下に里が置かれた。郷は大家族制で60戸を一単位とするらしいが、郡はいくつの郷をもっていたかは私にはわからない。
そして、ほぼ同じ頃に下総国府(市川市)や常陸国国府(石岡市)も置かれる。701年に大宝律令が出来、養老5年(721年)「下総国倉麻郡意布郷」戸籍が作られ、倉麻郡は相馬郡とされる。問題は意布郷で、この地域がどこを指すかで昔から論争が続いている。具体的には我孫子市日秀地区なのか柏市布施地区なのかで論争である。この頃の意布郷の近辺の郷には、大井郷(沼南の大井)、色陀郷(柏市の篠籠田)などがある。我孫子市史研究センターは、3月3日と4日のフェアで多くの出土品から我孫子市の日秀地区が意布郷の中心ではないかとしている。意布郷が柏市の根戸の中馬場あたりにではないかとの意見のほかに、この養老戸籍の住人が昔の布施村の人ではないかという意見もある。しかし、具体的に布施のどこかを特定出来ていないので、これは問題外である。承和2年(835年)の東海、東山二道に布施屋を建たせたことを根拠(布施屋=布施村)に布施村とするのであるが、これもどこに布施屋があったのかさえ明らかに出来ていないのでは、問題にもならない。
延喜5年(927年)馬津処=松戸と於賦駅(これもどこかでも論争中)に駅馬を配置しているが、この古代東海道が市川から石岡までの間、どのように通っていたかでも論争が続いているが、それはそれとして、我孫子市史研究センターは現国道356線沿いにある我孫子市日秀地区に於賦駅も在ったのではないかと主張する。
写真の千葉県立湖北高校の中庭の下には、54棟の掘立柱建物跡があり、これは「正倉」で律令時代の税である米を保管しておく相馬郡の役所(相馬郡が)の倉庫跡と考えられています。このことから、ここが古代相馬郡の中心の意布郷で、於賦駅があったのでないかと言われるゆえんです。この倉庫群は平成7年3月14日千葉県指定文化財となっている。
また、この近辺には将門神社や将門の井戸、ちょっと離れて将門が信仰したという日秀観音等が点在しており、こうした時代的繋がりからみても、我孫子の日秀地区が古代相馬郡の中心であったというのは妥当かも知れない。
そして、この意布郷が相馬御厨として、平忠重が大治5年(1130年)伊勢神宮へ寄進するが、この際には意布郷はいつのまにか布施郷となり、本来の意布郷の地域を越え、色陀郷や茨城県南部(菅生沼から取手市まで)までの広範囲となってしまっている。このように本来の意布郷以外の地域まで含ませて相馬御厨として、伊勢神宮に寄進するには、なんらかの理由が働いていたのだろうが、その理由を現在、はっきりと特定出来ていない。
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柏市内4ケ所も巡る相馬霊場巡りの紹介

2007-03-13 | 歴史
布施弁天の八重桜が満開に咲く頃、鈴を鳴らして白装束でやって来るのは、お遍路さん。年4回、ハイキング形式で「新四国相馬霊場」の各コースの一部を毎回ルートを変えて実施している会の4月のイベントを紹介させていただきます。
開 催 日:2007年4月15日(日)雨天順延
集合場所:午前8時30分JR我孫子駅
解散場所:常総線新取手駅、午後15時半
参 加 費:500円(当日持参)
申し込み:当日受付
用意するもの:中食(昼食の意)・タオル・雨具・シート・持薬等
主 催 者:新四国相馬霊場八十八カ所を巡る会
<コース案内>
第84番宝蔵寺~85番円性寺~26番南龍寺~68番67番布施弁天~七里ヶ渡跡~34番45番戸頭~47番79番竜禅寺~62番野々井白山神社~33番ぽっくり観音~44番西光寺~とげぬき地蔵~常総線新取手駅(全行程約17Km)
そ の 他:詳しくは取手市の坂東太郎のHPをご覧下さい。
今回のお薦めとしては、柏市内の北相馬郡大師霊場の4ケ所(85番札所、26番札所、67番札所、68番札所)が入っているからです。なお、出発寺の我孫子久寺家の宝蔵寺(写真)は、84番讃岐国屋島寺移し札所で、地形が讃岐屋島に似ていることから屋島寺移しとなったそうです。場所は中央学院大学の入り口の坂の上にあり、その昔は、高城氏配下の城、久寺家城があったといわれています。また、近くには鷲神社もあります。でも、我孫子駅からは結構ありますよね。
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ウォーキング中止と雨の布施弁天

2007-03-12 | その他
11日(日)の湧水めぐりウォーキングは小雨決行となっていたので、午前9時に主催者に問い合わせたところ、この雨を小雨とはいわないので、中止ですよの一言。折角楽しみにしていたのに残念。これで、午前中はすることがなくなった。そこで、家にいてもしかたないので、雨の中、わざわざ、雨の布施弁天とはどんなものか見に行くことに決めました。啓蟄を過ぎても、この雨は、春雨とはいかず、冷たくしかも横殴りにもなる時もあって、これでは咲き始めた白木蓮も寒そう。何枚かの花びらが散っていた。境内はというと、人は一人もいない。訪れる人がいない、布施弁天。理由がわかっていてもなにか切ない。写真は、後ろ姿も寂しい(?)布施弁天です。
そこで、参拝もそこそこに、人のぬくもりを求め、下のトマトハウスに行ってみた。が、ここもまた、売り子さん一人を除いて誰もいない。それでも、気後れせず、えーいと店内に入る。特に買い物のあてがあったわけでもないが。
でも、さすがに遠慮が出、売る子さんから一番遠い右奥へ、まずは向かうこととした。コンビニでも客の流れは二通りあるようで、店員に一番近いところから行く人と、これとは逆の人がいるという。自分のコンビニでのパターンと同じ行動をここでも自然と取ってしまったようだ。ところが、このおかげで思わぬ発見をした。なんと藁(わら)が1束100円で売っていたのです。昨年の秋に藁束を人からいくつか無料でもらってはいたが、それは畑の肥料として既に使い果たしてしまっていたので、早速、何束かを買い求めました。これは、ラッキーなのです。だって、これから植える「かぼちゃ」に花が咲き、実がなった時に、その下に敷いてその実を、地面に直接触れるのを保護してやるために必要だったからです。
他にめぼしいものはないかと、店内をみまわしながら、レジの方へと歩みを進めていたら、今度は旨そうな高菜のつけものが1ケ120円で売っていたので、これを昼飯のおかずにと買い求めたのです。家に帰って食べたら、これはちょっとショッパイ。田舎向きの味と言えますので、高血圧ぎみの人は遠慮した方が良いみたい。
千円にも満たない買い物では、ちょっと売り子さんとの会話もままならないと思い、すたこらさっさと藁と高菜を抱えて退散。帰りに、自分の菜園に行き、傘をさして、粗末なテント(?)に藁を格納。この雨の中、もちろん、畑に来ているのは暇な私だけ。11日の午前中は、雨が冷たいだけでなく、心も切なくなる時間を過ごしてしまいました。でも、これで、明日以降、暖かくなると一気に桜が咲き出すかも知れませんね。
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洋タンスと接着剤に勝てなかった木釘

2007-03-11 | 歴史
空木(うつぎ)という木を知っています?別名卯の花というそうです。夏は来ぬという唱歌をご存知ですよね。「卯の花の匂う垣根に/ほととぎす早やもき鳴きてーーー」と歌われている卯の花が、木釘の材料の空木なんです。普通は、生垣や畑地の境の木として植えら、高さが1.5㍍から2㍍までなります。全国に分布しており、雪の下科に属し、5月中旬から6月初旬にかけて白い花(写真)を咲かせます。木の随が、幹の中が、から(空洞)なので「空木」と呼ばれたり、旧暦の4月(卯月)に咲くことから「卯の花」とも呼ばれているのです。花言葉は「謙虚」。材質は硬く、腐りにくいところから、昔から木釘や杵などに使われているそうです。
このどこにでも繁っている空木を活用して、明治2年、北島善十郎という柏市豊四季地区の開墾農民の方が、冬の副業として桐タンスなどの組み立ての際に使う木釘づくりを始め、これが大勢の開拓者にも拡がり、豊四季木釘を有名にしたそうです。
東武線豊四季駅の北口から諏訪神社を超え、1キロも流山方面に行かない右側に稲荷神社が在りますが、その境内に、木釘記念碑が1926年に有志の人たちの寄付で建てられています。最初は手作りで、そのうち機械化もされたので、材料の空木が豊四季地区にはなくなり、大正から昭和にかけては大喜多のほうから貨車で豊四季駅に取り寄せていたと言うことです。木釘の生産は、戦後の一時期まで行なわれていましたが、桐タンスが洋タンスに取って替り、また、木釘によらない接着剤による組み立て方法が進み、今では産業としての木釘づくりは絶えてしまいました。豊四季蓑と同じ運命をたどったのです。
最後に、諏訪神社に参詣したしたかも知れないと言われ、境内に句碑がある与謝蕪村の卯の花に関する俳句を紹介します。「卯の花や 妹が垣根の はこべ草」
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白樺派の足跡散策とB・リーチ講演会

2007-03-10 | その他
大正ロマンがあふれるまちが、隣の「我孫子市」です。白樺派の文人達が今にも街角の小径からひょっこりと姿を現れそうな雰囲気を残している街なのです。不思議なもので、自分の脳裏には、流山といえば近藤勇、我孫子と言えば白樺派、そして柏といえば布施弁天というのが刷り込まれている。しかし、本当は布施弁天も白樺派を良く知らなかったのです。このブログを書きながら、学んでいるというのが実情で、詳しい方には何を笑止なこととお思いになるでしょうね。特に白樺派というイントネーションからは、高原のさわやかなお嬢さんをイメージし、そのかよわさと純粋さというもろさにメロメロになってしまうのです。
そこで、3月24日(土)の午前中に開催される「白樺派の足跡を巡る~あびこ~」と午後に開催される「バーナード・リーチの生涯と芸術」の講演会を紹介します。
まず、白樺派の足跡を巡る散策は、午前9時から12時までで、ガイド付きでコースは下記の通りです。
我孫子駅南口~生糸工場跡~我孫子宿脇本陣~杉村楚人冠邸~滝井孝作仮寓跡~旧村川別荘~志賀直哉邸~白樺文学館~バーナード・リーチ碑(写真)~柳宋悦邸跡・加納治五郎別荘跡~我孫子駅南口
申し込みは、3月19日までで先着60名で締切りだそうです。お問い合わせは、我孫子市教育委員会文化課、電話04-7185-1583。
次ぎに「バーナード・リーチの生涯と芸術」の講演会について。
講 師   鈴木禎宏氏(お茶の水女子大助教授)
日 時   3月24日(土)13:30~15:00
会 場   けやきプラザふれあいホール(我孫子駅南口前)
参加費   一般500円、中学生以下200円
主 催   白樺文学館(電話04-7169-8468)
現在、白樺文学館では、3月31日までバーナード・リーチ展~東と西を超えて~を開催中で、上記講演会の参加者には、この企画展の入館券が付いているそうです。
バーナード・リーチ(1887年~1979年)の我孫子での作陶は、大正6年(1917年)3月から大正8年(1919年)5月までで、火事で窯が焼けるまでのわずか2年あまりです。リーチは、後に我孫子での日々を「生涯に於ける最も幸福な年」と回想しているそうです。しかし、ロンドンに留学時に高村光太郎と交友があり、人間国宝であった濱田庄司が仲間とは、―――。
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弁天様の白木蓮、鬱金桜、八重桜

2007-03-09 | 歴史
布施弁天本堂前の樹齢120年以上の白木蓮(ハクモクレン)がいつの間にか、写真のように5分咲きだ。本来の開花時期は3月20日から4月10日頃までだそうですが、今年は暖冬のせいか約20日位早く、弁天様の肌のように白くふくよかな清楚な花を上向きに閉じたような形で咲いています。そう、辛夷(こぶし)と違い、この白木蓮は花びらを全開しないところが奥ゆかしいし、白木蓮は木蓮科の仲間と同じように甘い香りを放ち、人の心も酔わす。だから、花言葉が「自然への愛、崇敬、壮麗」なのかもしれない。原産地は中国。普通、木蓮というとこの白木蓮のことをいい、紫色の木蓮は紫木蓮と呼ぶとのこと。また、木蓮がお寺の境内に多いのは、花が蓮(はす)に似ているからと言われている。
そんな白木蓮と向かい合っている桜の大木があるのをご存知だと思いますが、この桜の木は、布施辯天記の中頃の歌詞に出てくる「次の小段の左右には 鬱金桜に八重桜」と歌われている八重桜の木である。この八重桜は、今は堅く蕾を閉ざしているが、毎年、華やかに八重の花をきれいに咲かせます。問題は、その手前の反対側に桜の木らしきものがあるが、それが歌詞の中のもう一つの鬱金桜なのでしょうか。私は、八重桜は知っているが、鬱金(ウコン)桜というのが、どんなのか、白っぽい、黄っぽい、薄い緑っぽい色の桜の花だと聞いたことが在りますが、これが鬱金桜(黄金桜とも書く?)と確認したことがないのですよ。花言葉は、「気品あふれて」らしいのですが、布施弁天に、それは残っていて、どの木を指すかおわかりの方いらっしゃいましたら、お教えてください。
昔(昭和48年以前)、桜の根元(山頂の境内には何本かの桜の木があるが、どこの桜の木を指すか特定できない)には、今は布施弁天の本堂脇にある麦秋(ろうそく屋彦兵衛=中尾嘯花の俳句の師匠)の「闇に寝た 眼をあけぼのの さくらかな」の句碑が在ったらしいのです。これは、千葉大歴史学会員の藪崎香さんの「拓本の魅力」という本に書かれておりましたが、藪崎さんによると不動明王の安置されている三重塔の建設の際に動かされたのではないかと言われています。とするとスロープを上りきる寸前の右側にある老木のところを指すのかなー。なお、この本堂脇の句碑、3つについて、やっと大体の調べがつきましたので、後日紹介します。
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時代に負けた蓑、木釘づくり

2007-03-08 | 歴史
先般紹介しましたように開墾の単なる現金稼ぎの副業としての木釘・蓑づくりのイメージが豊四季の場合、すぐに連想されてしまう。確かに、菅や茅、沙草(ササメ)等は地味の良いところには生えないし、蓑づくりは10月の終り頃から、開墾に専心できない時期に行なわれていた。普通は雨具として、背中に当たる部分は細かに編み、水切れを良くし、内側は荒い編み目にして、通風を良くします。この蓑を主に作っていたのは豊四季(第2小学校から南柏までの地域)の3,4,5号の人たちで、富士見町の1,2号の人たちは蓑をつくらず、タンスのメクギを切り出しナイフで削る作業(木釘づくり)をしていたようです。そして、木釘の原料の空木という灌木もササメと同様原っぱに自生していたのである。ササメは松と松との間に、松が大きくなる10年間ぐらい植えるのである。ササメは3年~4年で大きくなったようである。
一冬に蓑を一軒で500~600つくるのだから、原料も自生だけでは間に合わないし、蓑自体を作るのも大変だったらしい。朝5時から夜10時まで、一日12時間働いて、やっと3枚できるが、大正末の工賃は1枚1円50銭。確かに安いが、農業収入より安定的にはいるので競って蓑づくりに励んだそうだ。蓑は、旅人、農民、そして線路工夫等外で働く人には必需品であったが、ゴム制の雨合羽の普及により、廃れて行かざるをえなかった。木釘もそうだが、代用品ができても対応出来るような存在価値のある産業としてなければ、生き残れないのですね。
今、6月まで柏市立砂川工芸美術館で、蓑・バンドリ企画展が開催されているが、これは芹沢氏が集めた東北地方のものを中心に展示している。でも、砂川氏は柏市の大青田の出身というのに、なぜ、この豊四季蓑には関心を示さなかったのかといえば、この存在価値があるような芸術的作品まで豊四季の蓑づくりが昇華出来なかったからですね、多分ーー。特色がないものは、今更ながら時代に負けてしまうということを確認されられました。
なお、この豊四季地区には、この蓑の集荷を商売とする家が、かっては4軒あり、集められた蓑は岩槻や越ケ谷、そして東京方面にも売られていたようです。
写真は先般、砂川工芸美術館で撮った企画展の蓑で、豊四季のではありません。木釘については後日。
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旧東海道を歩いてみませんか?

2007-03-07 | 歴史
昨年10月から毎月1回、柏市歩こう会が主催している「旧東海道を歩こう」の第6回目ですが、とりあえず、今回で終わりとなるウォーキングです。恥ずかしながら、3月になるまで、こうした歩こう会が柏にあり、しかも毎月行なわれていたことを知りませんでした。知った時は、同じ日の3月11日、富勢地域ふるさと協議会主催の市内湧水めぐりウォーキングとぶっかっており、大変興味が在るのですが、湧水に行く予定ですので、残念ながら行けないのです。そこで、すこし紹介させていただきます。
2月は、藤沢宿~平塚宿~藤沢宿まで約12㎞歩いたそうです。3月11日は、柏駅に集合して、前回の終点の藤沢宿から大磯宿を経て小田原宿まで、約14㎞を歩き、小田原駅で解散するそうです。これは大変人気があり、毎回100人近くが参加しているようです。

期  日   3月11日(日)小雨決行
集合場所   JR柏駅中央改札口前
集合時間   午前7時30分(時間厳守)
交通費    ホリデーパス2,300円 平塚駅~二宮駅190円
参加費    一般参加者は当日1人300円納入。小学生以下は無料。
その他    弁当・飲み物は各自持参。
コース案内  二宮駅(下車)~川匂神社入口~押切坂~車坂~国府津駅~酒匂橋~山王神社~小田原宿~小田原城(写真)~報徳二宮神社~小田原駅(解散)
主  催   柏市歩こう会(問合せ 04-7143-2497 川上)

本陣、脇本陣8軒、旅籠100軒を越え、東海道53次の中でも最も栄えた小田原宿は、とりあえずの最終回に最もふさわしい地ではないでしょうか。行かれる方のご健闘を期待します。
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小金牧開墾の講演会のお知らせ

2007-03-06 | 歴史
昔、徳川幕府の牧場の一つであった小金牧を明治時代、明治政府はどのような理由とどのような方法で開墾させたかを探る講演会が4月に下記のとおり開催されるようです。
・演題 小金牧の開墾ー北総の夜明けー
・講師 中村 勝氏(柏市史編さん委員)
・日時 2007年4月22日(日)午後1時~3時半
・場所 柏市中央公民館 5階講堂
・会費 500円 中高生300円
・懇親会 於中央公民館 別会費500円
・主催 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会
写真は新富近隣センター脇の稲荷神社境内にある昭和43年に建てられた豊四季開墾記念碑です。明治2年に122戸、約600人が入植しましたが、土地はやせ、収穫も上がらず、ひどいことには折角蒔いた作物の種も強風で吹き飛ばされてしまうこともあったそうです。入植者たちは生活を支えるため、豊四季蓑や、タンスの製作に需要があった木釘作りなどの副業で現金収入をえていたそうです。当時有名だったこれらの工芸は、今は絶えてしまったことは大変残念なことです。入植した半数は、生活に困窮し、明治5年までには脱落したそうです。また、入植者たちと開墾会社との間では紛争が絶えず、訴訟沙汰になることもあったそうです。こうしたことを、当日はもっと広範囲に深く掘り下げて講演して頂けるものと思います。
なお、同会主催の3月4日に開催された鷲野谷歴史散策には、総勢18名が参加し、ほとんどが中高年の方だったそうです。歳を取って、ふるさとに健康に関心も持ちことは当然ですが、若い方にも参加はして欲しいですよね。
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第111回水戸の梅まつり

2007-03-05 | 花情報
3月4日(日)は、第2観梅デーとして、水戸の偕楽園で野点茶会やひな流し等も行なわれるというので、早速、先般のリベンジのために行ってきました。今回は、写真のように満開で、実に見事でした。人出も言うまでもなく、そりゃー、一杯。常磐神社の階段を上がったところには、露天がびっしり。人がすれ違うのがやっとで、偕楽園の参道とも言える売店前も人でごったがえしており、もちろん、園内に入っても、人、人でした。優雅な琴の調べや、野点等、実に上手に雰囲気を盛り上げる一方、食べ物のお土産のみならず、記念切手の販売や梅の苗木等の販売等々、商売気も充分でした。園内の小道を梅を見ながら、そぞろ歩くのも乙ですが、どうも起伏がなく、変化がない梅景色には、風流人でない私には、どうもなじまないようです。
そもそも、水戸の梅まつりというのは、1896年(明治29年)、上野と水戸間の鉄道開通(常磐線のこと)が記念して、観梅列車を運行されたことに始まり、今年で111回目を数えていますように、それがヒットし、一躍水戸の梅の名を全国に知らしめたのです。
そして、昭和9年、偕楽園内にあるすべての品種を調査・研究し、その中でも、花の形・香り・色などが特に優れているものを6品種選び、水戸の六名木(烈公梅、白難波、月影、江南所無、柳川しだれ、虎の尾)とし、水戸の梅の良さをピーアールしたのです。
そこで、この梅を堪能出来る風流人になるための、水戸の観光協会が推奨する梅の見方、7つの心得を紹介します。
その1  門前で居づまいを正し、心を静める。
その2  まだ朝露の残る園内に足を踏み入れる。
その3  梅林の全体をゆっくり目で追う。そして木立の小道を歩き、その息吹に触れる。
その4  枝先に目を落とし、一輪一輪を愛でる。百品種の実に美しい表情を見極める。
その5  古木を探す。地面を這うような幹、優雅な曲線をえがく幹、黒く耀く樹肌、臥竜梅・鉄幹と呼ばれるもので、時の流れ、生の鼓動に出会える。
その6  そして、そっと清楚な花々に近づき、深呼吸…。ふくいくとした香りが体の隅々に流れ、至福の喜びを味わう。
その7  門を出、心静かに時を楽しむ。
いかがですか、皆さんは。この心得を読んでも風流人になれそうもない自分は、帰り客で混まないうちに退散することしました。それでも、花を求め心は萎えず、筑波近辺にある茨城県立のフラワーパークに行くこととし、行きましたが、ここは現在、全く花がありませんでした。つまり、花が咲く時期でなかったので、通常740円かかる入場料も半額。当然、人もパラパラ。唯一期待していた展望台の南斜面にある150本の河津桜も大半は見頃を過ぎており、散々でした。
でも午後からは風も強くなり、ここの梅の花も散り始めたので、この日が、観梅の最良の日だったかも知れませんね。
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白樺派カレーって!

2007-03-04 | その他
3月3日(土)~4日(日)に我孫子市生涯学習センター(アビスタ)で行われている市
民活動フェアinあびこに行き、我孫子市史研究センターが展示している「古代相馬郡の中心・湖北」を見てきましたが、今回は、白樺派カレーを中心について書きます。
我孫子市は昔から文化活動(文化は官では作れない!)が盛んな街であるせいか、春間近な土曜日というのに、多数の市民が訪れ、熱心に出展者達と交流しており、自らの手による街づくりへの意欲を感じとれます。この辺のどっかの市と違って、行政頼りの市民活動なんかで、協働だなんていってはしゃいでいない。
その一例として我孫子に文学カレーを作る会の副会長の石戸氏の「白樺派のカレー再現秘話」の講演、おもしろかったですよ。確かに石戸氏は柏市に住んでいますが、柏市では文学カレーなんて思いつく市民はいないでしょう。裏かしとストリートミュージシャン等々もいいでしょうが、文化の香りもいいですね。話を講演に戻すと、大正時代、民芸運動の創始者の柳宋悦の奥さんの兼子氏(声楽家)が初めて作り、自宅で志賀直哉や武者小路実篤に振る舞った幻のカレー(みそ入りカレー)の復活までの6年間を手賀沼文化圏の話を織り交ぜての2時間の講演でした。同会長の吉澤氏の「カレーを食べて、白樺派文人の作品に思いを巡らせたい」という発想自体がユニークですが、それを結実させるのですから、すごいパワーですね。しかも、復活した、このカレーを実際に3日と4日の午前11時から午後1時まで、アビスタのぷらっとで、先着100名まで500円で食べることが出来るのです。残念ながら、この日(3日)、自分は食べれることが出来ず、この舌での報告はできませんが、聞くところによると当時の調理法は不明なものの当時のカレー粉は使ったそうです。
さて、本来の目的であった「古代相馬郡の中心・湖北」についても一言。正倉院資料のレプリカと新木東台遺跡出土墨土器等のレプリカ等々の展示により、我孫子市日秀に「相馬郡が」(昔の役所)が在り、於賦駅も在ったことを立証しようとしていました。でも、それは、確定ではなく、そうした考え方もあるということを提示しているのだと、同センターの事務局長は謙虚におっしゃっていましたのが、実に印象的でした。
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手賀沼近辺の2つの将門神社

2007-03-03 | 歴史
下手賀沼を挟んだ対岸,手賀沼の北地区(我孫子市日秀)と南地区(柏市岩井)にはそれぞれ将門神社なるものがある。利根川を越えたここ旧相馬郡にも多くの将門逸話が伝わっており,そこで,2つの将門神社と同地区に隣接するいくつかの将門逸話についても紹介します。
<柏市岩井地区の将門神社について>
沼南地区の竜光院となりに写真の将門神社があります。将門次女の椿姫が逃れてこの地に潜伏したという。ここに彫られている放駒の彫物は見事です。如春尼の地蔵堂なるものが将門神社境内にあるそうです。春姫は、尼となり、如春尼と名乗り、ここに地蔵堂を建て将門の菩提をともらったそうです。堂内には九曜の紋があるそうです。また,隣の竜光院には,将門の一族と関わりのある墓もあるとのこと。
<我孫子市日秀地域の将門神社について>
天慶3年に将門が戦死した時,その霊が日秀の郷に現れ、「吾は平親王将門の魂である、今よりこの地に止まり村中の老幼を守るであろう」と言って消え失せたという。湖北村誌によれば、将門が対岸から騎馬で手賀沼を乗り切って、この日秀で朝日を拝したといわれており,将門没後その遺臣たちが,そこで,ここに石祠を建て,将門の霊を祭ったというのが起源だそうです。もちろん,祭神は平将門で,旧日秀村の村杜。
<車ノ前五輪塔(柏市大井地区)について>
この塔は柏市の指定文化財(有形文化財)で大井の福満寺南側の境外地にある100m四方の森、通称「妙見さま」と呼ばれる妙見堂跡地にある。ここに,将門の愛妾の車ノ前が遺児とともに隠れ住み,将門の信仰していた妙見菩薩を祭った妙見堂を建てたといわれている。さて,この五輪塔は、総高160cmで、材質は小田御影石で,花輪にあたる笠石に欠損があるものの県下有数のもので,当時この地域を治めていた豪族の墓で,室町時代初期に建てられたと考えられている。なお,今でも妙見堂跡では,地元の人々が例年2月に将門の命日と称して妙見講を行っている。
<日秀観音堂の首曲地蔵について>
この観音堂は将門神社から北へ500メートルで成田街道に面したところにあり、ここには,将門調伏を祈願した成田不動尊を嫌い、成田方向に顔をそむけた首曲がり地蔵がある。今でも檀徒は、成田詣ではしないという。
<岩井戸(将門の井戸)について>
伝承として,承平2年、将門がひらき,軍用に供した井戸といわれている。湖北村誌によれば,「中相馬七ヶ村には七つ井戸と称して、必ず一村一個有せり」とされる七つ井戸のひとつで,日秀では岩井戸と呼ばれている。しかし、今は老樹とともにその面影をとどめているのみ。
以上、将門の娘、愛妾が出てくる手賀沼近辺の将門神社を中心に将門にかかわる逸話を紹介したが、今後もこの近辺に残る将門逸話を紹介します。
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北相馬霊場が89ヶ所の訳

2007-03-02 | 歴史
春、暖かくなり、お遍路さんが動き出す季節。そこで、新四国相馬霊場(市内にはその後出来た霊場がいくつかあるので、以後、区別するため北相馬霊場めぐりという。)が88ケ所じゃなく、1ヶ所多い89ケ所になぜ、なったかを探ってみました。以前にも、この北相馬郡の霊場めぐりについては書きましたが、この件についてはふれていませんでしたので。
安永2年(1773年)に観覚光音禅師(伊勢屋源六)が、四国の各札所をモデルにして、地形的に吉野川とよく似た利根川沿いにその候補寺を求めました。そして、四国札所の番号をそのまま付け、北相馬霊場が出来上がったと言われています。光音禅師が88ケ所の札所を定め終えた後、布佐の浅間社の前を通りかかったところ、どこからとなく「コーオン、コーオン」と光音禅師を呼ぶ声が聞こえたので、弘法大師がここにも札所を建てよと告げているように思え、この地に89ケ所目の札所を置いたそうです。これが89番目札所のいわれです。
この大師めぐりの全ルートの距離は約17里程度なので、昔の布施村の人たちは、番号にとらわれなかったので、1時間1里で1日9里(=約36キロ)歩くとすれば、1泊で充分に済む考え、1泊2日で霊場めぐりをしていたようです。ただし、1番札所の取手の長禅寺からスタートとし、次々に番号順にめぐっていくと、全距離が約142里に達するので、3泊4日が必要だったかも知れません。
現在でも茨城県の人たちは、この北相馬の霊場めぐりを脈々と続けているようですが、柏市の講は全て途絶えてしまっています。この布施地区には4ケ所の札所があります。南竜寺は第26番札所、薬師堂は第67番札所、布施弁天は第68番札所、そして円性寺は85番札所です。写真は、第67番札所の布施弁天下の薬師堂です。この薬師堂も以前は、寺山にある現寺山ふるさと会館の地にあったようですが、なんらかの理由で現在地に移転して来たようです。
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