布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

古代相馬郡の中心地論争について

2007-03-14 | 歴史
大化改新(645年)後、下総国が成立し、11郡(葛飾・千葉・印旛・匝瑳・下海上・香取・埴生・相馬・猿島・結城・豊田)に別れ、柏市の布施から我孫子市にかけては「下総国倉麻郡(相馬郡)」に属していたと思われる。郡には郡衙が置かれ、班田や徴税の管理に重要な任務を果たし、律令制度下の中央集権的行政の末端に位置した。延喜式では591郡が在ったとされる。郡の下に郷、郷の下に里が置かれた。郷は大家族制で60戸を一単位とするらしいが、郡はいくつの郷をもっていたかは私にはわからない。
そして、ほぼ同じ頃に下総国府(市川市)や常陸国国府(石岡市)も置かれる。701年に大宝律令が出来、養老5年(721年)「下総国倉麻郡意布郷」戸籍が作られ、倉麻郡は相馬郡とされる。問題は意布郷で、この地域がどこを指すかで昔から論争が続いている。具体的には我孫子市日秀地区なのか柏市布施地区なのかで論争である。この頃の意布郷の近辺の郷には、大井郷(沼南の大井)、色陀郷(柏市の篠籠田)などがある。我孫子市史研究センターは、3月3日と4日のフェアで多くの出土品から我孫子市の日秀地区が意布郷の中心ではないかとしている。意布郷が柏市の根戸の中馬場あたりにではないかとの意見のほかに、この養老戸籍の住人が昔の布施村の人ではないかという意見もある。しかし、具体的に布施のどこかを特定出来ていないので、これは問題外である。承和2年(835年)の東海、東山二道に布施屋を建たせたことを根拠(布施屋=布施村)に布施村とするのであるが、これもどこに布施屋があったのかさえ明らかに出来ていないのでは、問題にもならない。
延喜5年(927年)馬津処=松戸と於賦駅(これもどこかでも論争中)に駅馬を配置しているが、この古代東海道が市川から石岡までの間、どのように通っていたかでも論争が続いているが、それはそれとして、我孫子市史研究センターは現国道356線沿いにある我孫子市日秀地区に於賦駅も在ったのではないかと主張する。
写真の千葉県立湖北高校の中庭の下には、54棟の掘立柱建物跡があり、これは「正倉」で律令時代の税である米を保管しておく相馬郡の役所(相馬郡が)の倉庫跡と考えられています。このことから、ここが古代相馬郡の中心の意布郷で、於賦駅があったのでないかと言われるゆえんです。この倉庫群は平成7年3月14日千葉県指定文化財となっている。
また、この近辺には将門神社や将門の井戸、ちょっと離れて将門が信仰したという日秀観音等が点在しており、こうした時代的繋がりからみても、我孫子の日秀地区が古代相馬郡の中心であったというのは妥当かも知れない。
そして、この意布郷が相馬御厨として、平忠重が大治5年(1130年)伊勢神宮へ寄進するが、この際には意布郷はいつのまにか布施郷となり、本来の意布郷の地域を越え、色陀郷や茨城県南部(菅生沼から取手市まで)までの広範囲となってしまっている。このように本来の意布郷以外の地域まで含ませて相馬御厨として、伊勢神宮に寄進するには、なんらかの理由が働いていたのだろうが、その理由を現在、はっきりと特定出来ていない。
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