春、暖かくなり、お遍路さんが動き出す季節。そこで、新四国相馬霊場(市内にはその後出来た霊場がいくつかあるので、以後、区別するため北相馬霊場めぐりという。)が88ケ所じゃなく、1ヶ所多い89ケ所になぜ、なったかを探ってみました。以前にも、この北相馬郡の霊場めぐりについては書きましたが、この件についてはふれていませんでしたので。
安永2年(1773年)に観覚光音禅師(伊勢屋源六)が、四国の各札所をモデルにして、地形的に吉野川とよく似た利根川沿いにその候補寺を求めました。そして、四国札所の番号をそのまま付け、北相馬霊場が出来上がったと言われています。光音禅師が88ケ所の札所を定め終えた後、布佐の浅間社の前を通りかかったところ、どこからとなく「コーオン、コーオン」と光音禅師を呼ぶ声が聞こえたので、弘法大師がここにも札所を建てよと告げているように思え、この地に89ケ所目の札所を置いたそうです。これが89番目札所のいわれです。
この大師めぐりの全ルートの距離は約17里程度なので、昔の布施村の人たちは、番号にとらわれなかったので、1時間1里で1日9里(=約36キロ)歩くとすれば、1泊で充分に済む考え、1泊2日で霊場めぐりをしていたようです。ただし、1番札所の取手の長禅寺からスタートとし、次々に番号順にめぐっていくと、全距離が約142里に達するので、3泊4日が必要だったかも知れません。
現在でも茨城県の人たちは、この北相馬の霊場めぐりを脈々と続けているようですが、柏市の講は全て途絶えてしまっています。この布施地区には4ケ所の札所があります。南竜寺は第26番札所、薬師堂は第67番札所、布施弁天は第68番札所、そして円性寺は85番札所です。写真は、第67番札所の布施弁天下の薬師堂です。この薬師堂も以前は、寺山にある現寺山ふるさと会館の地にあったようですが、なんらかの理由で現在地に移転して来たようです。
安永2年(1773年)に観覚光音禅師(伊勢屋源六)が、四国の各札所をモデルにして、地形的に吉野川とよく似た利根川沿いにその候補寺を求めました。そして、四国札所の番号をそのまま付け、北相馬霊場が出来上がったと言われています。光音禅師が88ケ所の札所を定め終えた後、布佐の浅間社の前を通りかかったところ、どこからとなく「コーオン、コーオン」と光音禅師を呼ぶ声が聞こえたので、弘法大師がここにも札所を建てよと告げているように思え、この地に89ケ所目の札所を置いたそうです。これが89番目札所のいわれです。
この大師めぐりの全ルートの距離は約17里程度なので、昔の布施村の人たちは、番号にとらわれなかったので、1時間1里で1日9里(=約36キロ)歩くとすれば、1泊で充分に済む考え、1泊2日で霊場めぐりをしていたようです。ただし、1番札所の取手の長禅寺からスタートとし、次々に番号順にめぐっていくと、全距離が約142里に達するので、3泊4日が必要だったかも知れません。
現在でも茨城県の人たちは、この北相馬の霊場めぐりを脈々と続けているようですが、柏市の講は全て途絶えてしまっています。この布施地区には4ケ所の札所があります。南竜寺は第26番札所、薬師堂は第67番札所、布施弁天は第68番札所、そして円性寺は85番札所です。写真は、第67番札所の布施弁天下の薬師堂です。この薬師堂も以前は、寺山にある現寺山ふるさと会館の地にあったようですが、なんらかの理由で現在地に移転して来たようです。
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