道356号線、いわゆる成田街道に面した我孫子の日秀地区にある慈愍山観音寺の境内には、奇妙に首が曲がった、誰がいつ建てたかがわからない赤い帽子とエプロンをした地蔵尊があります。これが、有名な首曲り地蔵尊(写真)なのです。私も一度は参拝しなくてはと思っておりましたので、別ルートですが、相島芸術文化村に行く2キロくらい手前にありますので、先般行って来ました。郷土の英雄、平将門の折伏のため、護摩を焚き続けた成田山新勝寺に対し、更には、将門を討った藤原秀郷の守護神が成田不動尊であったというので、地蔵尊はしっかりと成田方面に顔を背けております。この像の足下にはお供え物が今日でもあとを絶たず、どれだけ地元の人が将門を慕っていたかを伺い知ることが出来ます。確かにこの地域の人たちは、将門の家紋に似たキュウリを食べないとか、将門を裏切った桔梗という人と同名の桔梗の花を植えないとか、極めつけは檀家の人は、今でも成田山詣ではしないと言われています。
実際、この寺にもこの首曲り地蔵像の他に、将門にまつわるものがあります。それは、この首曲り地蔵像の右隣には、観音堂があり、そこに将門の守り本尊の行基作とされる観世音菩薩像があります。これは、当初千葉県立湖北高等学校の近くにある将門神社に安置され祀っていたものをいつの時代からかわからないのですが、この観音寺に移されものだそうです。
このことから、地元の人たちは、観音寺のことを、「ひびり観音」とも呼んでいるのです。地元の古老の話によると、ひびりは昔は日出村といわれていたが、いつのまにか日秀となったそうです。それは、お気づきかと思いますが、日(太陽)は将門、その下に秀郷の秀を付け、秀の上に将門がいることを現しているとのことだそうです。
昭和40年代前半まで、首曲り地蔵像は野ざらしであり、観音堂も茅葺屋根でしたが、昭和48年になって鉄板で覆われるようになり、現在の姿になったのです。
しかし、観音寺は、正式には、同じ我孫子のある曹洞宗正泉寺の末寺として寛文2年(1662年)に開山され、開基は長安常久禅定門と伝えられています。ですから、寺のご本尊は、釈迦牟尼仏です。また、新四国相馬(北相馬)霊場二十九番札所にもなっており、観音寺は土佐国分寺移しと言われています。先にも書いたが、この近辺には、将門にまつわる、将門神社や軍用に資した将門の岩井戸とかがありますので、将門好きの方は、是非行ってみてはいかがでしょうか。なお、観音寺門柱の左脇の木、イヌマキの木ですが、これは立派な木ですので、一見の価値が有ります。
実際、この寺にもこの首曲り地蔵像の他に、将門にまつわるものがあります。それは、この首曲り地蔵像の右隣には、観音堂があり、そこに将門の守り本尊の行基作とされる観世音菩薩像があります。これは、当初千葉県立湖北高等学校の近くにある将門神社に安置され祀っていたものをいつの時代からかわからないのですが、この観音寺に移されものだそうです。
このことから、地元の人たちは、観音寺のことを、「ひびり観音」とも呼んでいるのです。地元の古老の話によると、ひびりは昔は日出村といわれていたが、いつのまにか日秀となったそうです。それは、お気づきかと思いますが、日(太陽)は将門、その下に秀郷の秀を付け、秀の上に将門がいることを現しているとのことだそうです。
昭和40年代前半まで、首曲り地蔵像は野ざらしであり、観音堂も茅葺屋根でしたが、昭和48年になって鉄板で覆われるようになり、現在の姿になったのです。
しかし、観音寺は、正式には、同じ我孫子のある曹洞宗正泉寺の末寺として寛文2年(1662年)に開山され、開基は長安常久禅定門と伝えられています。ですから、寺のご本尊は、釈迦牟尼仏です。また、新四国相馬(北相馬)霊場二十九番札所にもなっており、観音寺は土佐国分寺移しと言われています。先にも書いたが、この近辺には、将門にまつわる、将門神社や軍用に資した将門の岩井戸とかがありますので、将門好きの方は、是非行ってみてはいかがでしょうか。なお、観音寺門柱の左脇の木、イヌマキの木ですが、これは立派な木ですので、一見の価値が有ります。