布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

本多田中藩と柏市民との付き合い

2007-03-16 | 歴史
富勢村誌(柏市史 資料編1)によると、田中藩本多氏は所領四万石で雁間詰譜代大名にして、上屋敷は数奇屋橋内にあり、中屋敷は烏森二条町、下屋敷は市谷新東村にあったとのこと。
本拠地の藤枝市にあった田中城はまさに田んぼの中にあって、今はその城跡には小学校が建っている。本多家の家紋の正紋は本多立ち葵、副紋は本の字だそうです。さて、田中藩本多家の菩提寺についてであるが、本多家にとって飛地にある柏市の布施弁天は、祈願寺で、先祖の菩提寺ではないことは以前にも記しています。その菩提寺について調べていたら、前記の富勢村誌によると浅草東本願寺であるとされています。そこで、この浅草東本願寺について紹介します。浅草東本願寺は、浄土真宗東本願寺派で、宗祖は親鸞聖人で、開基は教如上人。ご本尊は、木造阿弥陀如来立像で,これは、慶長14年(1609年)徳本寺から譲られた,高さ91cm,寄木造りで玉眼入りの鎌倉時代の作品といわれている。1591年に教如上人は江戸神田に江戸御坊光瑞寺を開いたが、明暦三年(1657年)の大火で、浅草に移転したので、その後浅草本願寺・浅草門跡と称されるようになる。本堂は、大正12年(1923年)に関東大震災により焼失した後、昭和14年(1939年)に再建される。それ以降、浅草東本願寺は、度々の改称をしているが、それは割愛するが、平成の時代に作られた茨城県牛久市にあるいわゆる牛久観音が、この宗派に属していることを付け加えます。
一方、地元静岡県藤枝市にある同じ宗派の蓮生寺に、累代の田中藩主の墓があるという。私は、これを田中城下屋敷写真展「田中藩士と菩提寺」開催期間:2005年07月30日~2005年08月31日のHPを見て知ったのです。しかし、東京の浅草東本願寺と地元の蓮生寺の、菩提寺としての関係は、今のところ調べがついていません。
布施弁天が関東三弁天といわれ、繁栄できたのは、当時の大名であるこの本多侯や地元名主の後藤氏、江戸の篤信家の古家氏等々の人々の並々ならぬ庇護と地元の人々の現世ご利益への厚い信仰心に支えられていたことはいうまでもない。これらの土台が、明治以降なくなり、今日に至っているが、こうした庇護の環境を再度作り上げることは今は、時代が違い望むべきはないでしょう。
これまた、最近知ったことですが、藤枝市にある田中城史跡案内ボランティアグループが、柏市の田中藩と関係のあった自治会(多分代官所のあった田中地区か藤心地区)と今でも交流しているそうです。しかし、布施弁天及び弁天と関係ある町会等と、藤枝市の田中藩の関係者との交流という話は聞いたことがありません。布施弁天とは、本多家や田中藩の人々にとってなんだったんでしょうかね。1674年から1868年の約200年間に、布施弁天と弁天様の地元の人々は、一体、何を作り上げてきたのでしょうかね。
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 芭蕉⇒嵐雪⇒麦秋⇒嘯花⇒藤月 | トップ | 菜の花と卒業式雑感 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
田中藩縁の者 (長沢武輝)
2012-01-17 10:48:21
ルーツを調べたら、房総館山に廃藩置県で来た、長尾藩に関係していたので、興味を持ちました。
返信する
田中半縁者の方へ (ふう)
2012-01-18 10:20:02
初めまして
わざわざ房総の城跡や陣屋跡へも行きました。どうしても、房総撤退後の元田中藩主等の行方を知りたくて、藤沢市の図書館にレファレンスをかけましたが、プライバシーに関することとして断れました。貴族院員まではわかりましたが、その語がさっぱり。
何を調べるかわかるか、もし、御存じでしたらお教え下さい。
返信する

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事