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布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

時代に負けた蓑、木釘づくり

2007-03-08 | 歴史
先般紹介しましたように開墾の単なる現金稼ぎの副業としての木釘・蓑づくりのイメージが豊四季の場合、すぐに連想されてしまう。確かに、菅や茅、沙草(ササメ)等は地味の良いところには生えないし、蓑づくりは10月の終り頃から、開墾に専心できない時期に行なわれていた。普通は雨具として、背中に当たる部分は細かに編み、水切れを良くし、内側は荒い編み目にして、通風を良くします。この蓑を主に作っていたのは豊四季(第2小学校から南柏までの地域)の3,4,5号の人たちで、富士見町の1,2号の人たちは蓑をつくらず、タンスのメクギを切り出しナイフで削る作業(木釘づくり)をしていたようです。そして、木釘の原料の空木という灌木もササメと同様原っぱに自生していたのである。ササメは松と松との間に、松が大きくなる10年間ぐらい植えるのである。ササメは3年~4年で大きくなったようである。
一冬に蓑を一軒で500~600つくるのだから、原料も自生だけでは間に合わないし、蓑自体を作るのも大変だったらしい。朝5時から夜10時まで、一日12時間働いて、やっと3枚できるが、大正末の工賃は1枚1円50銭。確かに安いが、農業収入より安定的にはいるので競って蓑づくりに励んだそうだ。蓑は、旅人、農民、そして線路工夫等外で働く人には必需品であったが、ゴム制の雨合羽の普及により、廃れて行かざるをえなかった。木釘もそうだが、代用品ができても対応出来るような存在価値のある産業としてなければ、生き残れないのですね。
今、6月まで柏市立砂川工芸美術館で、蓑・バンドリ企画展が開催されているが、これは芹沢氏が集めた東北地方のものを中心に展示している。でも、砂川氏は柏市の大青田の出身というのに、なぜ、この豊四季蓑には関心を示さなかったのかといえば、この存在価値があるような芸術的作品まで豊四季の蓑づくりが昇華出来なかったからですね、多分ーー。特色がないものは、今更ながら時代に負けてしまうということを確認されられました。
なお、この豊四季地区には、この蓑の集荷を商売とする家が、かっては4軒あり、集められた蓑は岩槻や越ケ谷、そして東京方面にも売られていたようです。
写真は先般、砂川工芸美術館で撮った企画展の蓑で、豊四季のではありません。木釘については後日。
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