さんぽ道から

散歩中の雑感・モノローグを書いてみました

判子

2005-10-21 18:04:38 | Weblog
 証券会社との契約解除に1年以上かかってしまった。契約当時の判子が見つからなかった為である。似たような書体で形が近い判子が契約印であった為、相手方の印の照合が下手であると主張した月日もあった。漢字によるサインは筆勢がなく、個性に乏しく、サイン認証足り得るか自信がない。あわただしく書いた、いい加減なクレジットのサインでも、店頭で拒絶されたことがないから、サインによる認証確認はなされていないのだろう。パスワード、暗証番号は幾つもあり、手帳に書いておくか、思い出しやすい誕生日を番号にしておく。最初の判子は小学校卒業時に学校がくれたもので、早速、この判子で郵便貯金通帳を作ったことを覚えている。以来、判子は増え続け、今でも10本は持っている。女房も持っているから、一家では20本近くの判子が働いている。問題は、貯金通帳、契約書にどの判子を使ったか、押したときは覚えているつもりでも、けろっと忘れてしまうことである。何に使ったか小さなメモを判子に貼っている。年を取ると、防犯より忘失対策のほうが切実になってくる。
 先日TVで、駅構内にカメラを置き、テロリストの顔を識別する実験風景が報道されていた。街角にカメラが設置され始めて間もないのに、今度は高精度カメラに置き換わり、映像は、テロリスト照合を名目に、中央センターに集められ、管理されるのだろう。緊急に容疑者や犯人の割り出しが必要なときはあるだろうが、映像の管理体制が問題だ。電子商取引やATM、個人情報管理にからむ犯罪の防止に、また、利用者の利便性に、顔、手、指紋、目などで本人を確認する生体認証技術が進んでいる。この技術は5年先に、指先で、顔写真で買物までも可能とする程に進展するという。物忘れの激しい者にとっては願ったりかなったり?
 70年代に共産国の博覧会場で働いていた。日本の商品がまだ物珍しく、会場には毎日、大勢の見物客が押し寄せて、仕切りの柵が倒れてしまうほどの盛況であった。ある日、全く見ず知らずの来場者に「昨日は床屋へ行ったでしょう」「夕食にデンマークのビールを飲みましたね」と言われた。「ええ」と返事したが、暫くして体が強張った。プライバシーとか何とかではなく、ただ怖かったことを覚えている。博覧会が終わって、イギリスに着いた時は本当にホッとした。
 小さな秘密は時に生活を豊かにしているから、判子とか暗証番号の代わりに、生体認証カメラが街に設置され、監視される生活はごめんだ。監視の極は、女房に大福の買い食いがばれる。禿げ隠しの帽子が変装と見られ警察官に尋問される。券売機で拾った10円が発覚する、などだろう。生体認証の使い方によっては人間が、社会が変わって行く可能性があって、怖い。いつも判子をポケットに入れている上司がいた。財布は机に置きっぱなしにしていても判子は肌身離さず持っていた。接待伝票に判を押せずに困ったからよく覚えている。判子もセロハンテープやスキャナで複製・偽造されるが、どうだろう、例えば朱肉成分に加工したら、朱肉と印との組み合わせで本人確認の精度はかなり上がる。実験してみよう。判子が重用される社会にとどまって欲しい。生体認証の時代が来ても、やっぱり判子は手放せない街であって欲しい。20本を4、5本に整理できるか早速始めてみよう

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