いつだったか、、東京の出光美術館かどこかでやっていた白洲正子の遺品展を見たことがある。
当然、遺品の中には、白洲次郎のビトンのブリーフケース(アタッシュケース「コトヴィル55」型 定価は¥369,600(税込))が買った時のままのような状態で展示してあった。
今この価格なら当時幾らしていたのだろうと、全く庶民とは違う人物であると‥‥
さて、サンフランシスコ講和条約。
「調印式で、吉田茂首相が読む受諾演説の原稿は当初英語で書かれていた。」
と言う真相は、講和条約そのものから、受諾演説原稿まで全て米国側で準備したからである。
その証拠は、講和会議でのスピーチ。
「"It will restore the Japanese people to full sovereignty, equality, and freedom, and reinstate us as a free and equal member in the community of nations."」‥‥米国公文書館の資料によるとアメリカ人によって書かれたものとのこと。
実は、サンフランシスコ講和条約というのは、MacArthur体制の継続を望み、独立を躊躇していた吉田茂に対して、米国が強制的に行った政治ショーである。
従い、吉田茂首相とその随員が密かに(極秘裏に)軍用機に押し込まれて渡米したのである。
会場は広い倉庫のようなところで、兎に角署名しろという強制的なものだった。
そして、調印が終わると直ぐに車で移動して他の場所で安保条約が結ばれたのである。
この事情の概略は既に、米国で明らかになっている部分があるが、日本では一切伏せられている。
だから、この種の情報について、秘書官として同行したであろう宮沢喜一元首相は明らかにすべきではないかと常常思う。
しかし、この吉田茂の占領下での秘密は、吉田学校と呼ばれた門下生の官僚総理によって守られている。
宮沢氏も泉下(冥途)のでその秘密を明かさないのであろうか。
「サンフランシスコ平和会議直前、ソ連や中国共産党政府を除く国々との単独講和を進める吉田政権に対し、東京大学総長南原繁がこれらの政府を含めた全面講和を主張した。
これに激怒した吉田は「これは国際問題を知らぬ曲学阿世の徒、学者の空論に過ぎない」と発言。「学者風情に何がわかる」とばかり、南原の意見を一蹴したのであった。」‥とWiには書いてある。
しかし、実際は、サンフランシスコ講和条約締結後に、国会に是非を説いたのである。
即ち、サンフランシスコ講和について明らかにしたのは、締結した後だったのである。
このことは、なんと昔の社会科教科書に載っていた。
サンフランシスコ講和条約の調印の有無を示すことも出来なかった日本の立場を考えると、吉田茂の言葉実に良く理解できる。
やはり、日本の歴史というのは講和条約をも含めて再度検討する必要がある。