団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

★『実語教』と『童子教(どうじきょう)』

2016年10月23日 | 文科省・教育改正

  シ ラスという日本の素晴らしい国体を教えて貰ったねずさんのブログ、は何時も目から鱗ですが、又しても、全く 知らな かったことを教えて貰いました。

  何と、『実語教』と『童子教(どうじきょう)』なる素晴らしい教えがあったそうです。童子教は教育勅語の元にもなっ たものだ そうです。

  こんな素晴らしいものまでが、戦後、全く消されてしまったそうです。やはり、日本の再生は教育からですね。

  今回は、2日分で、特に分量もありますが、是非、全文をリンク元で読んでください。

  ねずさんと学ぶシラス国の物語よ り   2016年10月13日

  誰 もが実語教を暗誦できた時代

  『実 語教』は全部漢字で書かれているけれど、国産です。
平安末期にできあがり、鎌倉時代に普及が進み、江戸時代には寺子屋を通じて広く庶民の間に浸透して、江戸中期にはほぼ日 本の常識 となっていました。
どういうことかというと、誰もが暗誦できた。

福沢諭吉は明治時代に『学問のすゝめ』を書いて、その中で、
「実語教に、
 人学ばざれば智なし、
 智なき者は愚人なりとあり。
 されば賢人と愚人との別は、
 学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり」
と書いていますが、この文の元が実語教です。
諭吉は当時、常識となっていた実語教をひいて、そこから個人が学ぶことによって一身の独立を果たせるのと同様、国家も学 問によっ て独立を果たせるのだと書いています。

そこで今日は、あらためて『実語教』をみなさまとともに読んでみたいと思います。
はじめにいつものねず式の現代語訳を入れ、そのあとに原文と読み下し文を入れます。
また、若干の所感を末尾に記載します。

  【実語教】
 
山は高いから貴(たっと)いのではありません。
樹(き)があればこそ、それが貴い存在となります。

人は、太っているから貴いのではありません。
智があればこそ、それが貴い存在となります。

冨は一生の財産ですが、死んだらそれで終わりです。
けれど智は、万代の財(たから)です。
なぜなら命が終わっても、魂に刻まれるからです。

玉(魂)は磨かなければ光りません。
光りがなければ、石や瓦(かわら)と同じです。
その智は、学ばなければ得ることができません。
智の無い人を愚人といいます。

倉(くら)の財(たから)は朽ちてしまうことがありますが、
心の財は朽ちることがありません。

たとえ千両の金(こがね)を積んでも、
一日(いちにち)の学に及びません。

血を分けた兄弟でも、志が何時も同じとは限りませんが、
智によって得られる慈悲の心は、天下の人々を兄弟とすることができます。

財物は、永遠のものではありません。
才智を財物とすれば、これは消えることはありません。

宇宙を成すのは地水火風の四大です。それは日に日に衰えます。
ほっておけば魂(心神)も衰えるものです。
幼いうちから勤学しなければ(老いるほどに衰え)、
歳をとってから悔いても遅いのです。

書に親しむことを倦(や)めてはいけません。
学文は、怠ってはなりません。
睡眠時間を削ってでも書を読み、
食べる時間を削ってでも、終日(ひめもす)学び習いなさい。

たとえ良い師に出会ったとしても、
自ら学ぶという姿勢がなければ
徒(いたづら)にご近所さんと交わるのと同じで、無益です。

学問するとは言っても、繰り返し読むのでなければ、
それは隣の家の財(たから)を数えるのと同じです。

君子(善人)は智者を愛します。
小人(悪人)は、カネを持つ者を愛します。

たとえ財があり、身分の高い人のに近づいて
カネを得ることがあったとしても、
それは霜に花が咲くようなまぼろしにすぎません。

たとえ貧しくて賤(いや)しい家の出であったとしても、
智の有る人は、
宛(あたか)も泥中の蓮(はす)です。

父母は天地と同じです。
師君は日月(じつげつ)と同じです。
親族は、たとえていえば葦(あし)と同じです。
夫妻は雨露をしのぐ丈夫な瓦と同じです。

父母には朝夕に孝しなさい。
師君には昼夜に仕えなさい。
友と諍(あらそ)ってはなりません。
自分より目上の者には礼節と敬意をつくし、
自分より格下の者は、たいせつに思って常にかえりみなさい。

人として智がないということは、
木や石に生まれたことと変わりません。
人として孝がない者は、畜生と同じです。

戒(いまし)めと定(さだ)めと恵(めぐみ)の三学(*1)のの友と交わらなければ、
どうして七学(正しい法・修行・真実・快さ・自由・集中・心)を持てましょう。
慈悲喜捨の四等(しとう)の船に乗らなくて、
誰か生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、欲求不満、心身苦しみの八苦の海を渡れましょう。

注(*1)三学
三学の「定」は禅定に入ること、「恵」は「三慧」で聞慧・思慧・修慧で、聞慧は耳や目から入ってきた情報・知識、思慧は それにつ いて禅定をする中で繰返し考えてみること。修慧は思慧の結果得られる智恵。

仏の道は広いけれど、
殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚痴の十悪の人は道にすら入れません。
極楽浄土の都に楽しむといっても、
放縦の者は、そこに行くことはできません。

老人を敬うことは、父母を敬うことと同じです。
幼ない者を愛することは、子弟を愛することと同じです。

自分が他人を敬えば、他人もまた自分のことを敬ってくれます。
自分のの親を敬えば、人もまたそれぞれの親を敬うようになります。
自分が立身したいなら、まず他人を立てなさい。

他人の愁(うれ)いを見たら、ともに憂いなさい。
他人の嘉(よろこ)びを聞いたなら、ともに悦びなさい。

善を見たら速やかに行き、悪を見たらすぐに避けなさい。
悪を好む者は禍(わざわい)を招きます。
それは、鐘を打てば響くのと同じです。

善を修行すれば、福がやってきます。
それは、自分の影が、自分の身に随うのと同じです。

冨んだとしても、貧しかったことを忘れてはいけません。
始めは豊かでも、後には貧しくなることもあるのです。

地位を得ても、地位が低かったときのことを忘れてはなりません。
地位を得ても、それを失うこともあるのです。

芸事を極めることは難しく、しかも手を抜いたらすぐに技量が下がります。
書道もまた同じです。

食べものは身を養いますが、その根源には法があります。
身体があれば、そこには命があります。

常に百姓の辛苦を思いなさい。
そして必ず学問に努めなさい。

それゆえに初心の学者は、まずはこの実語教を暗誦しなさい。
それが学問の始めであり、終身まで忘れてはならないことです。…以下略


  2016年10月15日

 童 子教を読む 

 先日『実語教』をご案内しましたので、今回は『童 子教(どうじきょう)』をご紹介します。
こちらのほうが『実語教』よりもすこし若くてて、鎌倉時代中期の作とされています。
現存する最古の書写は、639年前の南北朝時代のもの(1377年)が現存しています。

この『童子教』もまた、『実語教』とともに、明治の中頃まで初等教育の柱として、全児童が暗誦できるまで、繰り返し音読 されたも のです。
つまり、ただ幼児期に暗誦したというだけでなく、初等、中等教育でそれがトレースされ、さらにその奥にある意味や意義を 学ぶこと で、鎌倉時代から明治中期までの基礎教育が行われました。
つまりこの二つは、誰もが知る日本人社会の常識であったわけです。

『童子教』は、原文の漢字だけで1650字もあるとても長いもので、その全部につき、一文ごとに解説を加えると、それだ けで一冊 の本になってしまいそうです。
ですので今回は、原文、読み下し文、現代語訳のみの掲載です。

ただ、せっかくですので、一例をあげてみたいと思います。

昔の時代劇などを見ると、武士たちなどが喧々諤々の大議論をしているところに、御家老がやってくる、すると、その議論し ていた侍 たちが、一様に膝を揃えてかしこまる、といったシーンがよく出てきます。
明治期の軍隊も同じでした。
息抜きにおしゃべりに興じていた兵たちが、上官がやってくると、言われなくても膝を正して礼をとりました。
実はこれは、『童子教』の教えに基づきます。

夫貴人前居  それ貴人の前に居ては
顕露不得立  顕露に立つことを得ざれ
遇道路跪過  道路に遇(あ)うては跪(ひざまづ)いて過ぎよ
有召事敬承  召す事有らば敬つて承れ
両手当胸向  両手を胸に当てて向へ
慎不顧左右  慎みて左右を顧みざれ
不問者不答  問はずんば答へず
有仰者謹聞  仰せ有らば謹しんで聞け

とあります。上司、上官の前では、あらわに立っていてはいけないというのです。
そとにあれば、ひざまづき、室内においては、正座して拝礼をする。
これは寺子屋教育では、実は、日常生活にまで徹底していたことでした。…以下略

  これも、GHQの企みもあったのでしょう。私のような軟弱な負け組も、こうした教育を受けていれば、もう少しましな 人間に なっていたかもしれないと思うと、本当に悔しいですね。

  本当に、世界は腹黒いですね。日本人には思いつかない仕打ちでしょう。それにしても、我が先人はなんとも素晴らしい 国を作っ てきたのでしょう。何としても、少しでも近づけるように再生する必要があります。



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1 コメント

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マルテンサイト千年 (グローバルサムライ)
2024-03-27 03:06:49
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタインの理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考・思想をを模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。どこか多神教的で多様性のある日本らしさのようななつかしさを感じさせるなにかによって。

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