乙巳の変(いっしのへん)なんて全く知りませんでした。というか読むことも出来ませんでした。あの中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我入鹿を退治して大化の改新が始まったと教わってきたので、突然の変化に驚いたものです。
日本の文化の凄さがどんどん解明されていますが、これも本当に驚かされます。
そんな説を謎を説く本が出たようです。何時もの宮崎さんが書評で取り上げてくれています。
真実はどこにあるのか分りませんが日本が素晴らしい歴史を持つことは間違いないでしょう。
この素晴らしいシラス国を嫌う人達には是非目を覚ましてもらいたいものです。
「宮崎正弘の国際情勢解題」より 令和四年(2022)8月17日(水曜日)弐 通巻第7433号
書評
乙巳の変はクーデターだが、背後の首謀者は誰だったのか?
乱の本当の狙いは違うところにあったのではないか?
遠山美都男『新版 大化改新──乙巳の変の謎を解く』(中公新書)
大化の改新を歴史教科書は必ず扱い、横暴を極めた蘇我一族を葬りさり、律令制度のあたらしい政治に向かうバネとなった改革だったと乙巳の変を肯定的に捉えている。
主役は中大兄皇子と中臣鎌足、学問的なバックボーンが南淵請安だったとする学説も多い。これは蘇我氏を悪役とした日本書紀と藤原家家伝により、イメージが固定してしまったからだ。
とくに乙巳の変の現場の挿絵は蘇我入鹿の首が飛び、簾のなかにいた皇極天皇は驚き、陪席していた古人大兄皇子はさっと自宅へ逃げて門を閉ざした。この絵画は江戸時代になってから、住吉如慶と具慶の合作で談山神社所蔵の「多武峰縁起絵巻」。後世の後智恵で描かれている。
実際の暗殺現場は、特定されていない。
これまでの通説に対して、ふつふつと疑問がわいてくる。
第一に殺害現場は本当に大極殿だったのか? 第二に三国(高句麗、新羅、百済)からの外交使節がならんでいた儀式の最中だったというのも怪しい。いや、外交儀礼はあったのか。
第三に息子の入鹿が討たれたのに、すぐ近くの甘樫丘の要塞のような豪邸にいた蘇我蝦夷はなぜ迅速に反撃しなかったのか? 軍勢は中大兄皇子側より多かった筈だ。
第四は中大兄皇子側の軍事作戦立案は中臣鎌足ひとりだけだったのか。すぐに甘樫の丘から飛鳥側を挟んで対岸に位置する飛鳥寺に本陣を構え、蝦夷側に使いして投降を呼びかけた。この意表を突く戦略は誰が立案したのか。なぜ中大兄皇子の本陣は飛鳥寺だったのか?
第五に皇位を継承した軽皇子(孝徳天皇)はいかなる役目を果たしたのか? なぜ中大兄皇子は皇位をすぐに継承できなかったのか? のちに天武天皇となる大海大兄皇子は、このとき何処で何をしていたのか?
著者の遠山氏はこうした疑問点を整理し、まず暗殺場は殿中ではなく、門を閉鎖した中庭あたり、外交使節は難波周辺に滞在していたが新羅使は来ていなかった事実を述べる。
遠山説によれば、黒幕は軽皇子である。
蘇我蝦夷は情報を誰よりも早く掌握できる立場にありながら迅速な対応が取れなかったのは、入鹿との連絡が円滑に取れていなかったからだと評者(宮崎)は推定するが、すぐに反撃できないのは自軍の豪族等の動揺が激しいこともあった。
真ん前の飛鳥寺に古人大兄皇子が赴き、仏門に帰依すると武器を捨てたことを見たからだ。つまり蝦夷は古人を次期皇位継承の最有力とみて、大いに工作してき たのだから総てが無になった失望が大きかったのだ。後智恵で皇位が継げたのは軽皇子だから、彼が首謀者という論理展開になる。
戦後の歴史教育はでたらめな史観の横溢、神話否定、こうなると資料のない古代史は「一人一党」の世界となって、奇想天外な騎馬民族説がでたかと思えば、太安万侶は不比等だったとかいう梅原猛のチンドン屋、左翼の本山は網野善彦、永原慶二あたりか。
近年、錯綜した歴史解釈もしだいに落ち着きを取り戻し、さすがに戦前の皇国史観的な天皇絶対を唱える論客はまれとなって論理的推測の論考が増えてきた。
本書は、そうした流れの一冊で、客観的に精密に大化の改新の実像にせまる。当時の豪族間の力関係などの問題を提議している点も、有益な観点が多い。
たしかに乙巳の変はクーデターだが、背後の首謀者は中大兄皇子と中臣鎌足を操った人がいたかもしれない。
また本当の乱の狙いは政治の刷新ではなく、違うところにあったのだと著者は力説する。
横暴にふるまった蘇我入鹿を討ち、蘇我蝦夷を自殺に追い込んだ結果、何が鋭角的に変わったか?
皇極天皇はその場で退位を決め(史上初めての譲位)、本命だった皇統後継は蘇我系の古人大兄皇子でなく、軽皇子(孝徳)へ遷った。つまり古人大兄の皇位継 承を阻止することが、乙巳の変の最大の眼目であり、皇極天皇を自然なかたちで退位していただき軽皇子が皇位を継ぐ(実際にその通りになった)。
乙巳の変で蘇我宗家は全滅した。
ところが石川麻呂など蘇我別家は生き残り次期政権でも大幹部となった。蘇我分家はその後の壬申の乱で大友皇子側に付いたため滅亡への道を歩む。
時系列で整理すると、622年(推古天皇30年)に聖徳太子が死亡し、蘇我氏の権勢はますます横暴となった。六年後に推古天皇は後継指名せずに崩御され た。有力後継者は聖徳太子の息子=山背大兄皇子と田村皇子だった。蘇我氏は山背大兄皇子の最強の支援者だった境部魔理勢を滅ぼし、力づくで田村皇子(舒明 天皇)を即位させた。
641年(舒明天皇13年)舒明天皇が崩御され、皇后だった皇極が即位し、蘇我氏は古人大兄皇子を次期皇統後継にするため、いよいよ山背大兄皇子が邪魔になる。蘇我入鹿は斑鳩を攻め、ついに山背を自殺へ追い込んだ。
これで古人大兄皇子の次期後継は固まった。
こうした横暴きわまる蘇我一族を許しがたいと決意したのが中大兄皇子と中臣鎌足だった。
密議が進んだ。
「入鹿とかねてより不和の噂のある蘇我倉山田石川麻呂が謀議に引き込まれた。鎌足の建言により、まず中大兄が麻呂の娘を娶り、両者の間に姻戚関係が結ばれ た後、謀議の全容が麻呂に打ち明けられたのである。麻呂は一党への加担に同意した。さらに鎌足の推挙によって弐名の刺客、佐伯子麻呂と葛城推犬飼網田が選 抜された」を遠山氏は解説を続ける。
蘇我蝦夷の周辺にあった漢東直らは、さっと立場を変え、中大兄皇子側に投降するか、逃亡した。
戦略的見地からみた場合、もっと愚劣な行動をとったのが古人大兄皇子だろう。直ちに蝦夷の要塞に駆けつければ、クーデターを不首尾に終わらせることが可能 だった。とっさに、そうした判断ができないばかりか、古人大兄皇子は、飛鳥寺というクーデター側の本陣へ駆けつけ、自ら髪を下ろし、武器を捨て仏門に入っ た(後日、殺されるが)。学僧の南淵請安は乙巳の変とは無関係だった。
乙巳の変へと至る前段は聖徳太子の皇子、山背大兄皇子を蘇我が滅亡に追いやった悲劇で、これは乙巳の変の一年半前のことだった。
この惨劇を契機として中大兄皇子側の計画は入念に練られ、時間をかけて仲間を増やしていく。謀議の中心は中臣鎌足(後の藤原鎌足。このころは鎌子と名乗った)。
鎌足は中大兄皇子と蹴鞠の場で偶会し、意気投合したことになっている。密議の場所は南淵塾のあった談山神社だとされたが、これも嘘くさい。というのも評 者は桜井駅から談山神社へ歩いてみたことがあるのだが、緩い山道で、かなりの時間がかかり、頻繁に密議を行った場所とは思えないからである。
また帰国後の南淵請安が拠点としていたのは、石舞台のかなり南の集落で、談山から更に南方向である。ということは密談、謀議の過程はかなりの部分がフィクションだろう。
ならば討たれた蘇我氏とはいかなる存在だったのか?
「あくまで世襲王権に依存・寄生する存在として誕生した。王権の身内的存在として、いわば王権の補完的な要素として、王権内部に組み込まれて存在することが蘇我氏の特質であり、その最大の存在意義であった(54p)
王権の簒奪ではなく、内部に寄生して王権を事実上左右できる立場をえるのが蘇我の野心であり、後年、類似パターンを繰り返すのが藤原不比等以後の四兄弟と藤原仲麻呂ということになる。
まさに「歴史は繰り返す」
所詮、人間なんて権力を手にしたいのでしょう。それだけにシラス国で、権威と権力を分離した日本の凄さを思わざるを得ません。
こうした乙巳の変(いっしのへん)もその争いと言えるのでしょう。何だかんだ言ってもこうやってシラス国を作り上げた日本は本当に素晴らしい。
それを忘れた日本!
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