キュヴェ タカ/cuvee taka 「酔哲湘南日記」

新鮮な山海の恵みを肴に酒を吞み、読書、映画・音楽鑑賞、散歩と湘南スローライフを愉しんでいる。 

雨上がり

2018年04月16日 | Weblog
朝、夜半から激しく降った雨が止み、北に向かい散歩に出た。
昼飯は筍ご飯の予定なので、鶏の照り焼きを作ろうと、西友に寄り和鶏を買った。
最近牛乳を飲んでいないなあと思い買った。

何時も同じ道を歩くので、帰りは富士見ヶ丘を登り、秋葉神社から降りて帰ることにした。せっかくだから富士見ヶ丘で大学時代に家庭教師をしていた子の家は何処だったのだろうかと探してみた。
東から西に向かって降りる道の北側にあったのだが、同じような道なのでどの道だったか分からず、5本ばかり道を辿ってみたが結局見つからなかった。
1年間週2回通った家なのですぐに見つかると思ったが、記憶というものは霞んでゆくものなんだな。
思えばあれから40年以上の月日が経っていて、その頃造成されて間もなかった富士見ヶ丘も建て替えが進んでいて老人の町になっていた。
落ち着いた風情になったともいえるが、年寄りが息を切らせて急な坂を上っているのを観ると、高度成長時代の山を切り崩した造成地に建てられた雛壇式の住宅の問題点が高齢者に覆いかぶさってきているのが分かる。
1960年代の造成前は、下の方が棚田になっていて春には鰌を捕って遊んだ。
しかし、下といっても山なのでどこから水を引いたのであろうか、中里の萬年堰からだとすれば長い距離の用水路があったはずだが記憶にない。
日本人は米を得るために実に多くの工夫をし、苦労をしてきたのだが、その技術はここら辺りでは完全に消え失せてしまって、痕跡を捜すのさえ難しい。

昼に筍ご飯、鶏の照り焼き、芹の卵とじを食べた。
この取り合わせ実によく、何時ものことながら喰いすぎた。

午後は母の居間に行き、広島巨人のデイゲームなどを観て過ごす。
父が亡くなってから、母は野球をよく観るが、父が好きだったからだろう。
巨人は陽岱鋼の骨折で打順を変えたが、セカンド吉川、一塁岡本を使い続けている高橋監督は大したものだ、生え抜きの若手が出てこなければ、チームカラーはくすんだ色のままだからね。
アメリカをお払い箱になった43歳の上原は使えないかも知れない。
大阪体育大学を出て活躍したルーキーイヤーのしなやかさはアメリカに行ったときには既に無かったが、それでもアメリカ野球で居場所を見付けた、大リーグはパワーとスピードに勝るが、それだけ大雑把になる。
ボールを振らない日本の野球には通用しないだろう。

2時間ばかり寝ていたが、その間に娘達が帰ってきたようで、晩飯を食べるというので妻が張り切って料理を作っていた。
風呂に入り「福寿」を冷やで、キャラ蕗をつまみに一人呑んでいたら、皆やって来て晩飯になった。
鯵のなめろうが出来ていて、娘達がバケットとビスケットを持ってきた。
妻が豚肉を味噌に漬けてあったのをフライパンで焼いていたので、僕が半分をグリルに入れた。
ソテーとグリルを食べ比べたが予想通りグリルが断然美味かった。
七輪の炭火で焼くのが一番うまいので、その内やってみたい。
これには先日開けてカラフェに残したソシアンド・マレ1986を合わせたが、豚肉でも味噌漬けにすると赤ワインに合うもんだ。
フランス料理に鰹節と昆布がよく使われるようになったが味噌もその内に爆発的なブームになるんじゃないかな。
ワインはさらに開いて美味くなったという感じはなかったので、1986はすでにピークになっているってことだろう。
春キャベツと甘夏蜜柑のサラダ、モッツァレラチーズ、群馬土産の原木椎茸焼き、豆腐となめこの味噌汁などを食べ、イタリアの赤ワイン、群馬土産の梅酒などを飲んで10時前に台所から母の居間に移り、一人「PTAグランパ」での松平健の奮闘を観た。
大会社の部長を退職した66歳のPTA副会長役を演じているが、会社の論理とオバサンの論理、役人の論理がぶつかり合って右往左往しながらもどうにか前に進むのが面白いんだな。
妻は、ババアになったら若い頃は甘くてダメだった甘い酒が好きになったと土産の梅酒を呑み、やっぱり「福寿」もワインも呑んで早々に2階に上がり寝てしまった。
そのせいか珍しく今朝は6時前に起きて台所でガタガタやっている。
コメント
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