京都幕末ロマンの旅-2(新選組屯所跡・八木邸)


 2.八木邸

  壬生寺を出て坊城通を北に戻ると、道の左側に八木邸があります。

 

  これが正門(東向き)で、「長屋門」と呼ばれるものです。写真では見えませんが、この両脇は長屋になっています。屋敷の周囲に長屋をめぐらし、出入り口だけを突き抜けにして門扉を設ける造りで、長屋の中は小部屋になっています。次に行った旧前川邸も同じ長屋門です。

  京都に到着した後の新選組一行は、この八木邸と当時の前川邸を宿舎としてあてがわれます。八木氏と前川氏は壬生の郷士(村などに土着した武士)で、その地域で一定の社会的地位と経済力とを持つ、いわば地元の名士、有力者でした。八木邸にはガイドがいて見学者に説明をしてくれるのですが、ガイド氏によれば、八木家は越前朝倉家の流れを汲む家系だそうです。武士ですから、屋敷を囲う塀が長屋造りという、まるで敵襲を防ぐような厳重な構造であるわけです。また八木邸の室内にも、弓などが掛けてあった気がします。    

  八木邸を見学するには1,000円の観覧料が必要で、ガイドによる説明が付き、八木邸の東に隣接する菓子屋「鶴寿庵」で抹茶とお菓子を頂くことができます。ただし、邸内の写真撮影は禁止。現在公開されているのは母屋部分です。この母屋部分は幕末当時の姿をほぼそのまま保っているそうです。実際、子母澤寛『新選組遺聞』にある八木邸についての記載と、現在の八木邸の玄関の位置や部屋の間取りは完全に一致していました。

  『新選組遺聞』に収録されている八木為三郎の証言によれば、母屋に隣接する鶴寿庵の敷地には更に八木家の離れがありましたが、子母澤寛が訪れた当時には、この離れはもうなくなっていました。後に新選組を結成することになる近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨、新見錦など10数名の人々は、母屋と離れとに寝泊りしていたそうです。

  昭和三年、子母澤寛は当時まだ健在だった八木為三郎に取材し、その証言を書き起こして『新選組遺聞』に収録しました。八木為三郎は新選組が結成された当時はまだ子どもでしたが、新選組が成立する前から成立後の数年にわたって、新選組の隊士たちや事件を直に見ていた人物であり、また自身の両親から様々な話を伝え聞いてもいました。

  子母澤寛が取材を行なった昭和三年、八木為三郎はもう80歳近い高齢であったものの、その記憶は子母澤寛が驚嘆するほど明瞭でした。八木為三郎の証言が文字に残されたことで、新選組の隊士たちの具体的な容姿や人物像、また隊内で起きた諸々の事件の詳細が現代に伝わることとなりました。

  八木為三郎の証言はいずれも重要で、特に芹沢鴨暗殺事件の真相、池田屋事件前後の新選組の様子、切腹した山南敬助が、死ぬ直前に恋人の明里と格子窓越しに別れの言葉を交わしていた情景などは、八木為三郎の証言がなければ新選組ブームなどは起きなかったろうと思えるほど劇的です。

  さて、八木邸がなぜにこれほど新選組のファンを惹きつけるのか。その理由は、八木邸が新選組屯所跡であるからというよりは、ここが芹沢鴨暗殺のまさに現場だからです。暗殺の際に鴨居についた刀痕も残存しています。

  子母澤寛『新選組遺聞』に収録される八木為三郎の証言と思い合わせながら八木邸を見学すると……ああ、ロマンだわ(殺人事件の現場だけど)。

  この八木邸の建物はとても瀟洒で上品な造りでした。ゴージャスなのではなく、戸の格子といった細かい部分の造作がさりげなく優美で、北の縁側に面した庭も風情のあるものでした。

  司馬遼太郎の『燃えよ剣』には、八木邸に着いたばかりの近藤勇が八木邸の庭を見て「やはり京は違う」と感心し、後にこの程度の庭なら京には腐るほどあることを知って、「京は恐ろしい」とつぶやくというエピソードが設けられています。近藤勇が関東の田舎者ぶりを丸出しにするちょっとした笑い話ですが、すみません、私も八木邸の庭に感心しちゃいました(笑)。やはり私も東国の田舎者ですね。

  芹沢鴨が暗殺されたのは、この北の縁側・庭に面した十畳間とその西隣の八畳間でした。芹沢鴨は十畳間に寝ていたところを暗殺者に襲われ、斬られながらも縁側づたいに隣の八畳間に逃げ込んでそこで倒れ、更に散々に斬られて死にました。暗殺者が振り上げた剣先が八畳間の鴨居に当たって、鴨居の一部が三角の形に削ぎ落とされました。この刀痕は現在、透明なプラスチック板で覆われて保護されています。

  まだ幼かった八木為三郎とその弟の勇之助は、芹沢鴨が逃げ込んできた八畳間で寝ていました。芹沢鴨は八木兄弟の寝ていた布団に覆いかぶさるようにして死亡したそうです。倒れた芹沢鴨を更に刺した暗殺者の剣先が、たまたま勇之助の足に当たってしまい、弟の足に刀傷ができていた、ということを八木為三郎は証言しています。

  八木兄弟の母親は兄弟の隣の部屋で寝ていて、この母親が暗殺者の姿を目撃していました。まず土方歳三がこっそり芹沢の様子を探りに来て、その後に沖田総司、原田左之助ら4、5名が斬り込んできて、芹沢の隣に寝ていた平山五郎と、芹沢と同衾していたお梅という女性を殺し、隣の部屋に逃げた芹沢を追ってとどめを刺したということです。

  八木為三郎は後になってこの話を母親から聞かされましたが、当の母親は生前、決してこのことを口外しなかったそうです。だから、八木為三郎が子母澤寛に証言しなければ、芹沢鴨暗殺の犯人は近藤勇一派だったという真相は闇の中になっていたに違いありません。

  暗殺事件の直後、近藤勇や土方歳三があまりに素知らぬ顔をしているので、真相を知っていた八木夫妻は「くすくす笑って」いたそうです。ただ、八木為三郎の弟が巻き添えで怪我を負ったことを知った沖田総司の反応を、八木為三郎は証言しています。沖田総司の性格が知られて興味深いです。

  「この傷を、事件の次の日でしたか、その翌々日でしたか、沖田総司が聞き伝えて、折柄使者を受けて驚ろいて戻って来た父へ、『勇坊まで怪我したそうですね』と、さも気の毒そうに云っていたそうです。沖田はあれでなかなか正直なところがあり、気のいい人物でしたから、罪科もない子供にまで、怪我をさせて気の毒だと思ったのでしょう。」(『新選組遺聞』)

  母屋の西側は全部が土間でした。土間の北端に勝手口があります。土間は南北に細長い形をしていました。横幅は狭いのですが、奥行きはとても深いのです。土間ですから天井はふきぬけで高いです。これほど極端に細長い土間は見たことがなく、面白い形だなと思いました。土間の西側の壁には向こうの見えない出入り口がありました。ガイド氏に聞いてみたら、出入り口の向こうには、現在の八木家の人々が居住している住宅があるそうです。

  見学を終えて、隣接する菓子屋「鶴寿庵」に寄って、見学料に入っている抹茶とお菓子、その名も「屯所餅」を頂戴しました。「屯所餅」は、餅に細かい茶葉が練りこんである大福だったかな。ロマンとともに味わいました。

 

  (続く)

 
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