水戸歴史ロマンの旅-1(弘道館)


  折しも桜が満開の時季ではありますが、3月中旬に水戸市に日帰りで遊びに出かけました。期待以上に楽しかったです。

  複数人で行きましたが、水戸に行こうと決める前に、やはりまず原発事故の影響は今どうなっているのか、という話がちらりと出ました。どこまで信用できるのかは知りませんが、…いや、むしろ信用できない機関の情報のほうがいいかもしれない、 原子力規制委員会のサイト で、水戸の空間放射線量を調べてみました。そしたら、東京よりもやはり少し高めでした(毎時およそ0.06~0.07マイクロシーベルト)。

  次に食べ物は大丈夫なのか、という話になりました。というのは、茨城に行くのなら、ぜひあんこう鍋とあん肝を食いたかったからです。あんこうは深海魚。海底にたまった放射性物質を摂取しまくっているかもしれません。でも食べ物が安全かどうかってのは、これはもう個人では確かめようがありません。

  結局、空間放射線量も食べ物も、たかだか一日いるくらいならさして影響ねーだろ、という結論に落ち着きました。万が一影響が出るとしても20年後くらいだろうし、そのころにはみんなもう年寄りでいろんな病気にかかってお迎えを待ってる状態だろうから、今さら神経質になる必要はない、と。

  で、水戸に行くのはすごく便利です。上野から常磐線特急「ひたち」で65分。あっという間に着きました。「ひたち」の車輌がまた新しくてきれいでね~。正直、秋田新幹線の新型車両よりしゃれおつだと思いました。車内販売もありましたが、特急のせいか車内販売のお姉さんも猛スピードで駆け抜けるため、声をかける暇がありませんでした。

  水戸駅に到着する寸前、車窓一面に、青空の下で輝く銀色の湖と淡い紅白の梅林がぱっと広がりました。それはかの有名な千波湖と偕楽園の梅林だったのです。梅の花は八分咲きくらいのようでしたが、それはそれは美しい風景でした。

  水戸はいうまでもなく旧水戸藩、徳川御三家の一つであった水戸徳川家の城下町です。地図を見ると、水戸市街は那珂川と、那珂川から枝分かれしている桜川、そして桜川の末流に位置する千波湖に挟まれています。自然の川と湖を堀として建設された都市であることが分かります。洋の東西を問わず、古代都市ってのは、大体が山と川といった自然の要害に挟まれたところに作られるようです。

  駅からバスに乗って、まず水戸藩の藩校跡、弘道館に向かいました。このへんの地名は「三の丸」でした。その名のとおり、旧水戸城の三の丸があった場所でしょう。歩いていくと、巨大な空堀に出くわしました。

  

  空堀の向こうの右側に、うっすらと茶色い建物が写り込んでいます。これは茨城県庁旧本庁舎で、現在は三の丸県庁舎と県立図書館が入っています。水戸市庁舎も同じ敷地にあるそうです。そして、空堀と旧県庁舎の間に巨木が立ち並んでいます。写真ではそんなに大きく見えないのですが、太い幹を持つまっすぐな高い樹が、等間隔で屹然と並んでいるこの風景はかなりな迫力がありました。

  地図を見ると、この周辺には裁判所、税務署、法務局、警察署などが集中しています。封建時代にお城や官署があった場所には、現代でもそのまま役所があることが多いようです。また市立図書館や県立図書館がある場所は、江戸時代の藩校跡地であることも多いように思います。

  弘道館に行く途中に、八卦堂、鹿島神社、そして孔子廟がありました。これらの建物も弘道館の一部です。県庁旧本庁舎がある三の丸の敷地も本来は弘道館の一部で、調練場や馬場などがあったそうです。

  弘道館は天保十二年(1841)に設立されました。設立者は水戸藩第九代藩主、かの有名な徳川斉昭(1800-1860)です。江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜(1837-1913)の実父でもあります。

  徳川斉昭は死後に「烈公」という諡号を贈られました。諡号は王侯貴族の死後に付けられる名前で、その人の生前の人柄や業績を端的に表す漢字が用いられます。徳川斉昭の諡号には「烈」という字が用いられました。強烈で激烈な個性を持つ人物で、「よきようにはからえ」的な、のんびりしたお殿様ではなかったことが諡号からもうかがわれます。

  八卦堂は八角形のお堂で、八つの壁面に八卦の図象の浮き彫りが一個ずつありました。鹿島神社は小さな神社ですが、その建物は伊勢神宮の建物を再現したものなんだそうです。孔子廟は孔子を祭ってある建物です。藩校は儒学を学ぶところなので、孔子廟が一緒にあることが多いです。東京だと湯島聖堂です。江戸幕府の学校であった昌平坂学問所が湯島聖堂に付設されました。

  八卦堂=易学、鹿島神社=国学、孔子廟=儒学ということで、建物でも幕末の水戸藩の学問傾向がどんなものであったかが分かります。ナショナリスティックな色彩の濃い思想を根幹とするものであったのでしょう。

  一方で、徳川斉昭は梅をことのほか愛好した人物としても知られています。梅の花で有名な水戸の偕楽園は、徳川斉昭が造成した庭園です。それをふまえてか、弘道館の周辺にも梅の木が多く植えられていました。

   (後ろの建物は孔子廟。)

   (左手の梅林は弘道館の文館跡地。)

  江戸時代の知識人は梅の花を好んだようですが、特に武士階級の知識人はその傾向が更に強かったものと思われます。梅は花ばかりではなく、その幹や枝、花を着ける時季も含めて愛好の対象でした。黒ずんだごつごつした木肌、力強く折り曲がって伸びる枝、残寒の中で凛としてまばらに咲く、微香を漂わせる薄い紅白の小ぶりの花、こうした梅の特徴は、質朴で力強い美しさを尊んだ武士階級の価値観と合致するものだったのでしょう。

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