悲しみの人


  週末に帰省しましたが、帰省したその夜に大熱を出しました。

  すわ、ノロか、ノタか、インフルか?新幹線の車内ではあれほど注意したのに(←ずっとマスクしてた)、実家にウイルスを持ってきてしまったか、と案じましたが、幸いなことに熱は一日で下がりました。嘔吐や下痢といった症状もまったくなし。

  家族も今のところなんともないので、何かのウイルスを持ち帰ったのではなく、単なる小風邪のようです。ほっ。

  今は『紅白歌合戦』やってます。美輪明宏が初出場だってことにすごい驚きました。それほど今まで偏見が根強かったってことか。にも関わらず、泰然としてる美輪明宏はさすがだ。

  みんなが幸せでないといけないらしい、めでたい大晦日におかしなタイトルつけちゃってすみません。

  今さらながらに遠藤周作の『イエスの生涯』を読みまして、この作品に描かれたイエス・キリストの人物像とテーマが、以前に読んだ『沈黙』、『悲しみの歌』、『母なるもの』など、遠藤周作の一連の作品群の根底に共通して流れていることに今さらながら気づき、これらの作品を読み直している最中です。

  イエス・キリストは「悲しみの人」であった、というのが遠藤周作の解釈です。従来の「神」とは違い、怒れる存在でもなければ、罰する存在でもなかった。また「預言者」たちのように、高みから人々を見下ろして警告する存在でもなかった。

  イエスは幸せな人間には関心がなかった。彼が専ら気にかけたのは、悲しんでいる人間、辛い思いをしている人間、苦しんでいる人間、惨めな思いに苛まされている人間、他人に見捨てられた人間、虐げられた人間、蔑まれた人間、罪を犯した人間であった、といいます。

  しかし、イエスはそうした人々に対して「奇跡」を起こしたのではなく、黙ってその傍に寄り添い、彼らの悲しみをともにしただけだった。イエスは現実には無力な、弱い人だった。しかし、最後まで人々の悲しみを分かち合うことを貫いた。

  宗教に勧誘してるんじゃないのでご安心を。遠藤周作の解釈は納得できるなあ、と思っただけです。納得できるというよりは、心にしみ入ります。

  なんでこんなことを書いてるのか自分でもよく分かりません。大きな悲しみを背負っている人が今のこの時もたくさんいるという当たり前のことが、なんか頭から離れません。その傍に寄り添い、その悲しみをともにしている存在が、本当にいてくれるといいんだけど。

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