Illiterate(3)
3月11日の地震が発生した当時、福島第一原発内で作業していた人々が、避難先でマスコミのインタビューに応じているのをテレビで観ました。
私は、原発は緻密で微妙で難度の高い作業を必要とする施設だから、原発内で働く人々は全員が東京から派遣された専門の技術者だろうと思っていたのです。しかし、インタビューに答える人々がみな東北の方言でしゃべっていたので、作業員が地元の人であることをまず意外に思いました。
次に驚いたのは、彼らが「原発は絶対に安全だと思っていたから、事故が起きてびっくりした」と口々に言っていたことです。
1979年にスリーマイル島原子力発電所の事故が発生したとき、私はまだ子どもでしたが、テレビのニュースが事故について連日報道していたことは覚えています。どういうことなのかはさっぱり分からないけれど、なんか大変なことが起きているらしい、と漠然と感じました。
その後、スリーマイル島原子力発電所事故から10年近くが経過した後、アメリカのテレビ局によるドキュメンタリー番組を観ました。それは、アメリカに数多く存在する、原子力発電所の一つの周辺に居住している人々の健康状態を取材した内容でした。
取材した原子力発電所は事故こそ起こしていないものの、その周辺住民の間で白血病や癌の発症率が平均に比べて高くなっている、というのです。でも、原子力発電所が近くに存在することと、白血病や癌の発症率の上昇との因果関係を立証することは難しい、というより不可能で、周辺住民は不安を抱えたまま住み続けるしかないということでした。
86年にはチェルノブイリ原子力発電所の事故が起きました。あの事故が全世界に与えた衝撃と影響は言うまでもないですね。旧ソ連が事故の発生を最初は隠していたこと、正確な情報を旧ソ連政府がなかなか発表しなかったこともあって、余計に恐怖を覚えたものです。
だから、私の認識は「原発はそこにあるだけで恐ろしい代物だ」というものでした。
それなのに、福島第一原発の中で働いていた作業員の人たちが、原発の建物は絶対に壊れないと思っていた、事故が収束したらまた原発で働きたい、と言うのを聞いて愕然としました。
更に愕然としたのは、現在避難している、今は「警戒区域」に指定された20キロ圏内に居住する人々が、避難命令が出てから数日で家に帰れると思っていた、と言っていたこと、また東京電力が発表したいわゆる「工程表」に対して、9ヶ月もかかるなんて長すぎる、もっと早く終わらせてほしい、と言っていたことでした。
そのあまりに素朴な考えに、原発内で働いていた地元の人々、原発周辺に住んでいた人々に対して、東京電力は都合のわるいことは何も教えずに騙し続けてきたのだ、と猛烈に腹が立ちました。
同時に、原発内で働いていた地元の人々、原発周辺に住んでいた人々に対しても、違和感を覚えました。彼らはなぜ、原発についてこんなにも何も知らないのか?今は50年前とは違い、原発について知ろうと思えば簡単に知ることができる。彼らはなぜ知ろうとしなかったのだろう?
ひょっとしたら、原発が危険なものだと知っていたからこそ、逆にあえてそれ以上は知ろうとしなかったのかもしれない、とも思います。彼らにとって、原発は、それなくしては生活できない不可欠の存在になっているだろうからです。原発が危険であることを認めてしまったら、生活の大きな基盤が、気持ちの上で崩壊してしまう。そうした恐怖感があったのかもしれません。
そう、もし私が原発の周辺地域に住んでいたなら、やはり原発について知ろうとは思わないでしょう。原発が怖いのではなく、原発が怖いということを知るのが怖いから。
日本において、「責任者」の大部分は、責任を自覚もしていなければ、本当の意味で責任をとらない人々です。「責任をとる」とは「引責辞任」、つまり「本当は自分の責任じゃないけれども、立場上しかたないから表向きに責めを一身に引き受ける形を取る」ことだと思ってる人々がほとんどのように思えます。
テレビを観ていて、わりと責任をとってるなあ、と思えるのは、菅首相と東京電力の清水社長です。どんな目に遭うか分かりきってる避難所に行って、避難している人々に土下座して謝って、罵られて、怒鳴られるままになっている姿を見ると、まあマシだな、と感じます。
本来なら自分も土下座して避難している人々に謝らなければならないのに、知らぬふり、だんまりを決めこんでいるばかりか、逆に被害者面したり、ヒステリックに政府批判をしている人々は多いです。政党はどこもそう。あと、某県の現職の知事とか。
確かに政府のやりようは信用を得られていないという点でまずいだろうけど、政府の福島第一原発事故への対応を批判している人々の履歴を調べてみると、どの口でお言いだい?と思える人の実に多いこと。大っぴらになるとまずい履歴は、公式サイトからちゃっかり削除してる人もいます。
その一方で、頑張ってる人々がいるのも確かで、東京電力の計画停電が停止されたのは、実は某政党の一部の議員たちが、東京電力に対して、計画停電を実施する根拠である、電力供給量と需要量の正確なデータを明らかにするよう強く要求したからだそうです。つまり、「計画停電」なんて、本当はやる必要がないはずだと追求したのです。
また、与党にも野党にも原発推進派が溢れかえっている中で、脱原発の方向をめざして活動している議員たちも、やはり与党、野党に関わらずいます。
私はそうした人々がいることを、最近になってようやく知りました。自分の無知を恥じるばかりですが、知ろうと思えば、知ることはできる、のです。
私は、原発は緻密で微妙で難度の高い作業を必要とする施設だから、原発内で働く人々は全員が東京から派遣された専門の技術者だろうと思っていたのです。しかし、インタビューに答える人々がみな東北の方言でしゃべっていたので、作業員が地元の人であることをまず意外に思いました。
次に驚いたのは、彼らが「原発は絶対に安全だと思っていたから、事故が起きてびっくりした」と口々に言っていたことです。
1979年にスリーマイル島原子力発電所の事故が発生したとき、私はまだ子どもでしたが、テレビのニュースが事故について連日報道していたことは覚えています。どういうことなのかはさっぱり分からないけれど、なんか大変なことが起きているらしい、と漠然と感じました。
その後、スリーマイル島原子力発電所事故から10年近くが経過した後、アメリカのテレビ局によるドキュメンタリー番組を観ました。それは、アメリカに数多く存在する、原子力発電所の一つの周辺に居住している人々の健康状態を取材した内容でした。
取材した原子力発電所は事故こそ起こしていないものの、その周辺住民の間で白血病や癌の発症率が平均に比べて高くなっている、というのです。でも、原子力発電所が近くに存在することと、白血病や癌の発症率の上昇との因果関係を立証することは難しい、というより不可能で、周辺住民は不安を抱えたまま住み続けるしかないということでした。
86年にはチェルノブイリ原子力発電所の事故が起きました。あの事故が全世界に与えた衝撃と影響は言うまでもないですね。旧ソ連が事故の発生を最初は隠していたこと、正確な情報を旧ソ連政府がなかなか発表しなかったこともあって、余計に恐怖を覚えたものです。
だから、私の認識は「原発はそこにあるだけで恐ろしい代物だ」というものでした。
それなのに、福島第一原発の中で働いていた作業員の人たちが、原発の建物は絶対に壊れないと思っていた、事故が収束したらまた原発で働きたい、と言うのを聞いて愕然としました。
更に愕然としたのは、現在避難している、今は「警戒区域」に指定された20キロ圏内に居住する人々が、避難命令が出てから数日で家に帰れると思っていた、と言っていたこと、また東京電力が発表したいわゆる「工程表」に対して、9ヶ月もかかるなんて長すぎる、もっと早く終わらせてほしい、と言っていたことでした。
そのあまりに素朴な考えに、原発内で働いていた地元の人々、原発周辺に住んでいた人々に対して、東京電力は都合のわるいことは何も教えずに騙し続けてきたのだ、と猛烈に腹が立ちました。
同時に、原発内で働いていた地元の人々、原発周辺に住んでいた人々に対しても、違和感を覚えました。彼らはなぜ、原発についてこんなにも何も知らないのか?今は50年前とは違い、原発について知ろうと思えば簡単に知ることができる。彼らはなぜ知ろうとしなかったのだろう?
ひょっとしたら、原発が危険なものだと知っていたからこそ、逆にあえてそれ以上は知ろうとしなかったのかもしれない、とも思います。彼らにとって、原発は、それなくしては生活できない不可欠の存在になっているだろうからです。原発が危険であることを認めてしまったら、生活の大きな基盤が、気持ちの上で崩壊してしまう。そうした恐怖感があったのかもしれません。
そう、もし私が原発の周辺地域に住んでいたなら、やはり原発について知ろうとは思わないでしょう。原発が怖いのではなく、原発が怖いということを知るのが怖いから。
日本において、「責任者」の大部分は、責任を自覚もしていなければ、本当の意味で責任をとらない人々です。「責任をとる」とは「引責辞任」、つまり「本当は自分の責任じゃないけれども、立場上しかたないから表向きに責めを一身に引き受ける形を取る」ことだと思ってる人々がほとんどのように思えます。
テレビを観ていて、わりと責任をとってるなあ、と思えるのは、菅首相と東京電力の清水社長です。どんな目に遭うか分かりきってる避難所に行って、避難している人々に土下座して謝って、罵られて、怒鳴られるままになっている姿を見ると、まあマシだな、と感じます。
本来なら自分も土下座して避難している人々に謝らなければならないのに、知らぬふり、だんまりを決めこんでいるばかりか、逆に被害者面したり、ヒステリックに政府批判をしている人々は多いです。政党はどこもそう。あと、某県の現職の知事とか。
確かに政府のやりようは信用を得られていないという点でまずいだろうけど、政府の福島第一原発事故への対応を批判している人々の履歴を調べてみると、どの口でお言いだい?と思える人の実に多いこと。大っぴらになるとまずい履歴は、公式サイトからちゃっかり削除してる人もいます。
その一方で、頑張ってる人々がいるのも確かで、東京電力の計画停電が停止されたのは、実は某政党の一部の議員たちが、東京電力に対して、計画停電を実施する根拠である、電力供給量と需要量の正確なデータを明らかにするよう強く要求したからだそうです。つまり、「計画停電」なんて、本当はやる必要がないはずだと追求したのです。
また、与党にも野党にも原発推進派が溢れかえっている中で、脱原発の方向をめざして活動している議員たちも、やはり与党、野党に関わらずいます。
私はそうした人々がいることを、最近になってようやく知りました。自分の無知を恥じるばかりですが、知ろうと思えば、知ることはできる、のです。