▼長く暗い「シンゾウ・トンネル」を抜けたと思ったら、次は悪寒漂う秋田の「スガ・トンネル」だった。そこを抜け出したと思ったら、すぐ次のトンネルに突入した。このトンネルは被爆地広島の焼野原に向かっている「キシダ・トンネル」だ。
▼川端康成の小説「雪国」の一説を思い出したのが、衆議院期日前投票を済ませた時だ。投票所を出る私の心は、閉塞感に包まれていた。日本の未来が見えてこないからだ。そんな私の心とは対照的に、真っ青な秋空に純白の雲が浮かんでいた。
▼ノンフィクション作家・保坂正康著「昭和時代」朝日新聞出版を読んでいる。昭和史の出来事を順次並べ、解説を加えたものだ。実に簡明で昭和の流れがわかりやすくできている。
▼【4つの枠組みに入ったら抜け出せない日本人】という文章に心が反応した。
▼皇紀2600年とされた1940年(昭和15年)の段階で、昭和初期には自由だった日本人が、なぜここまでもの言えぬ不自由な状況に、追い込まれていたのだろうかという問いだ。
▼それは「教育の国家統制」・「情報発信の一元化」・「暴力装置の発動」・「弾圧立法の徹底化」の4つの枠組みに入ったら、人々は抜けられなくなるというのが回答だ。
▼大きく分けて昭和6年の「満州事変」から「軍のことに関して政治が口を挟むな」と「統帥権干犯」を持ち出し、軍は好き勝手な行動を始める。
▼日中戦争の発端は、昭和12年の盧溝橋事件だ。この頃の若手将校たちには「生意気な中国をこらしめてやる」という考えが蔓延していた。
▼この戦争の裏で英米が中国軍に、軍事、兵員、日常品、医薬品を支援していたという。当時日本政府や軍は、中国と戦うのは英米との戦いだ、ということを認識していなかったという。
▼日中戦争はますます深みに入り、昭和13年には「国家総動員法」公布。国会でこの法案が審理された時、宮崎長吉代議士が「これでは軍隊が好きなようにやれるのではないか」と質問した。
▼説明に当たった陸軍省軍務課員・佐藤賢了中佐が、相次ぐヤジに「うるさい、だまれ」と怒なり問題になっている。この時期にはすでに合理的なシステム自体が消滅し、まともな議論が
できなくなっていた。
▼さらに昭和15年になり「大政翼賛会の誕生」で、すべての政党が解散し、議会での議論は空洞化してしまう。
▼このことは、民主主義や議会政治が日本で成熟しなかったといわれるが、今の我が国にも、そっくり当てはまる。さらにその年は皇紀2600年も重なっていた。
▼大正14年生まれの私の母は、その時覚えされられたといい、天皇の歴代の名をそらんじて私に聞かせていた。それは母の認知防止のバローメータのように思えた。「まだ言えるから大丈夫」と、微笑んでいたからだ。
▼【軍事主義国家になるということは、相手の国民を殺害し、国土を疲弊させ、そのうえで経済の回転を止めてしまうということだ。そのためのモラルや考え方が『正義』だ。日本社会は太平洋戦争に始まる前にそのようになっていた。太平洋戦争はその結果として始まった】と保坂は述べている。
▼もう一度思い出してみたい。「教育の国家統制」・「情報発信の一元化」・「暴力装置の発動」・「弾圧立法の徹底化」だ。
▼私には、コロナ軍の目に見えぬ侵略に対抗すると言いながら、この4つの枠組みに国民をはめ込もうという、政府の魂胆が見え隠れしてならない。
▼それが戦後民主主義の劣化と共に、どこか戦争の匂いを孕んでいるような気がしてならない。
▼コロナ禍での様々な会合の自粛は、発言の自由も制限される。大政翼賛会の結成の理由は【非常時に議論している場合ではない、国家を一元化しないといけない】というものだった。
▼あの時代は【議論は敵対】だという考えが広がっていた。そして国家はいよいよ、異様な形をとることになった。
▼昨夜、布団に入る前に外に出てみた。満月が100円硬貨のように輝いていた。過疎地域に住んでいると、まちへの買い物は遠い。「ガソリンを値下げしてちょうだい」と、お願いしてみた。
月が硬貨にみえる物価高
三等下
▼川端康成の小説「雪国」の一説を思い出したのが、衆議院期日前投票を済ませた時だ。投票所を出る私の心は、閉塞感に包まれていた。日本の未来が見えてこないからだ。そんな私の心とは対照的に、真っ青な秋空に純白の雲が浮かんでいた。
▼ノンフィクション作家・保坂正康著「昭和時代」朝日新聞出版を読んでいる。昭和史の出来事を順次並べ、解説を加えたものだ。実に簡明で昭和の流れがわかりやすくできている。
▼【4つの枠組みに入ったら抜け出せない日本人】という文章に心が反応した。
▼皇紀2600年とされた1940年(昭和15年)の段階で、昭和初期には自由だった日本人が、なぜここまでもの言えぬ不自由な状況に、追い込まれていたのだろうかという問いだ。
▼それは「教育の国家統制」・「情報発信の一元化」・「暴力装置の発動」・「弾圧立法の徹底化」の4つの枠組みに入ったら、人々は抜けられなくなるというのが回答だ。
▼大きく分けて昭和6年の「満州事変」から「軍のことに関して政治が口を挟むな」と「統帥権干犯」を持ち出し、軍は好き勝手な行動を始める。
▼日中戦争の発端は、昭和12年の盧溝橋事件だ。この頃の若手将校たちには「生意気な中国をこらしめてやる」という考えが蔓延していた。
▼この戦争の裏で英米が中国軍に、軍事、兵員、日常品、医薬品を支援していたという。当時日本政府や軍は、中国と戦うのは英米との戦いだ、ということを認識していなかったという。
▼日中戦争はますます深みに入り、昭和13年には「国家総動員法」公布。国会でこの法案が審理された時、宮崎長吉代議士が「これでは軍隊が好きなようにやれるのではないか」と質問した。
▼説明に当たった陸軍省軍務課員・佐藤賢了中佐が、相次ぐヤジに「うるさい、だまれ」と怒なり問題になっている。この時期にはすでに合理的なシステム自体が消滅し、まともな議論が
できなくなっていた。
▼さらに昭和15年になり「大政翼賛会の誕生」で、すべての政党が解散し、議会での議論は空洞化してしまう。
▼このことは、民主主義や議会政治が日本で成熟しなかったといわれるが、今の我が国にも、そっくり当てはまる。さらにその年は皇紀2600年も重なっていた。
▼大正14年生まれの私の母は、その時覚えされられたといい、天皇の歴代の名をそらんじて私に聞かせていた。それは母の認知防止のバローメータのように思えた。「まだ言えるから大丈夫」と、微笑んでいたからだ。
▼【軍事主義国家になるということは、相手の国民を殺害し、国土を疲弊させ、そのうえで経済の回転を止めてしまうということだ。そのためのモラルや考え方が『正義』だ。日本社会は太平洋戦争に始まる前にそのようになっていた。太平洋戦争はその結果として始まった】と保坂は述べている。
▼もう一度思い出してみたい。「教育の国家統制」・「情報発信の一元化」・「暴力装置の発動」・「弾圧立法の徹底化」だ。
▼私には、コロナ軍の目に見えぬ侵略に対抗すると言いながら、この4つの枠組みに国民をはめ込もうという、政府の魂胆が見え隠れしてならない。
▼それが戦後民主主義の劣化と共に、どこか戦争の匂いを孕んでいるような気がしてならない。
▼コロナ禍での様々な会合の自粛は、発言の自由も制限される。大政翼賛会の結成の理由は【非常時に議論している場合ではない、国家を一元化しないといけない】というものだった。
▼あの時代は【議論は敵対】だという考えが広がっていた。そして国家はいよいよ、異様な形をとることになった。
▼昨夜、布団に入る前に外に出てみた。満月が100円硬貨のように輝いていた。過疎地域に住んでいると、まちへの買い物は遠い。「ガソリンを値下げしてちょうだい」と、お願いしてみた。
月が硬貨にみえる物価高
三等下