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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

熊から知らされた国会の劣化

2020年07月29日 07時04分06秒 | えいこう語る

▼北海道のある村で、熊が出没しその対策について、行政と議会と住民の姿勢が問われている番組を観た。テレビ局の視点は「民主主義とは何んなのか」と言う観点から番組が構成されていた。

▼ある村会議員は、テレビの取材に「この問題に民主主義は関係ない」と、取材を拒否する態度を見せ、熊以上に吠えていた。

▼そんな議員でも選挙になれば、地域社会特有の「しがらみ」をバックに、当選し続けるようだ。なんとも悲しい戦後75年の村社会の現状だ。

▼今は市町村合併で、函館市となった私の村も、終盤には議会がトップに居座り、その下に行政がいて忖度を続け、底辺に住民がいるという、国民主権が逆立ちをしたような、地方自治だった。

▼過疎や高齢化で、身動きのできない状態を「痴呆爺体」と揶揄はしていたが、民主主義が成熟していないコミュニテーは、自らが植民地化(吸収合併)を選択してしまった。

▼民主主義の崩壊を実体験した私は、最近の我が国は、民主主義は村社会と同等のレベルに落ちているのではないかと感じている。

▼まず、国民への「説明責任」を果たさない。閣議決定で勝手に決める。党首討論をしないということであれば、もはや民主国家ではないからだ。

▼戦争に負け、日本帝国主義解体の最強手段として「民主主義」が戦勝国である米国から強制導入された。

▼戦後生まれの国民は、戦前的なものの価値の多くを否定することによって、個人の自由を獲得してきたような気がする。その結果が「対米従属」のようだ。

▼その代表的人物が、我が国の現在の総理だ。その総理自身が、反省しているのかしていないのかよく理解できないのが、彼のスローガンである「戦後レジームの解体」だ。


▼米国色の強い日本国憲法を改正しようとする動きまで見せている。しかし、本人は【対米中毒患者】なのにだ。

▼この矛盾の中に生きていて「民主主義とは何なのか」と、戦後75年も経っているに、頭を悩ませる田舎オヤジの私だ。

▼前述した熊の村会議員から言わせれば「民主主義なんか考える奴は、熊に食わせてやる」と言われそうだ。

▼極右の哲学者の長谷川三千子は「民主主義とは何んなのか」という、そのものずばりの著書を文藝春秋から出版している。

▼民主主義が市民権を得てきたのはフランス革命からだ。だが、市民は革命を遂行するために暴徒化し、ジェノサイド(大量虐殺)が行われ「恐怖政治」がデモクラシ―と結びついたという。

▼そのデモクラシーを【いかがわしい言葉】だと看破する。私の頭はますます混乱して来る。『民主主義がいかがわしい』というなら、戦争を引き起こした、我が国の戦前の「国家主義」は、果たして「輝かしいもの」だったのだろうか。

▼民主主義を覆そうとするのが、昨今の歴史修正主義のようだ。「ゾウさんもいい。キリンさんもいい」という選択ではない。

▼「国家主義」と「民主主義」どちらがいいかと問われれば、迷うことなく「民主主義」に手を上げる。簡単に言えば「表現の自由」が憲法で保障されているからだ。

▼今の世界は、また「国家主義」の傾向が強くなってきたようだ。それは政治を行う上で「民主主義がいかがわしいもの」だという事なのだろうか。それとも民主主義そのものの「劣化」なのだろうか。

▼戦後生まれの私たちがあこがれた「米国民主主義」も、トランプの出現において「いかがわしい」ものになってきたようだ。

▼日本も同様シンゾウの出現で、戦後民主主義は「いかがわしいもの」にされそうな感じがある。コロナ禍の「巣ごもり」の中で、ここはひとつ戦後民主主義なるものの【自己批判】をする時期ではないかと、この頃実感する。

▼【真の日本民主主義】の確立に向けて思考するのが、「新型コロナ」が日本国民に問いかけているのものではないだろうか、などと、田舎オヤジ頭の中は「民主主義とは何なのか」という妄想が迷走しまくる。

▼昨日のテレビで、またその村に熊が出没していた。熊は村議会ばかりではなく、国会にも【本質を語れ】と、訴えに来たような気もするが。