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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

田舎暮らしもいいもんだ

2020年07月07日 16時57分41秒 | えいこう語る
▼新型コロナで、私の地域の両隣りの町から、1名づつ陽性者が出た。挟まれたという危険を感じた。

▼4月上旬(冬季間クローズ)にオープンしたばかりの、妻がシェフで?私が接客!の小さな食堂を、その後1ヶ月以上もクローズしなければならなかった。

▼普段国内や海外からの観光客が多い函館市だ。感染拡大が急速に進むのではと、市民も気色ばんだが、その後感染者はゼロだ。

▼函館市はその昔、函館山が海にぽっかり浮かんでいたが、陸地との間に砂が堆積し出来た「陸繋島=りくけいとう」という形の街になった。その形が夜に函館山から眺めると、世界三大夜景ともいわれた。

▼街なからみて、函館山の裏側は津軽海峡、砂州の右側がペリーが来航した函館湾、左側が太平洋だ。

▼そのため風が強く、明治からは「大火の街」と言われるほど、1000戸以上が焼死する大火が、10回ほど発生した。特に昭和9年の大火は「函館大火」と呼ばれ、死者2166名を出した。

▼明治40年の大火では、石川啄木が僅か「132日」で、函館を去っている。故郷追われるように出て来て、函館では「132日」で、大火により追い出されている。

▼それから啄木は、小樽・釧路・東京への移動で、26歳で世を去っている。この漂泊の人生が、啄木が「さみしき人」として、人々の印象に残っているのだろう。

▼私と啄木の関係と言えば、私は高校時代、啄木が函館で住んでいた青柳町のすぐ近くにアパート住まいをしていた。でも、啄木について本の一冊も読んだことがなかった。

▼私は40年程前に故郷に戻ってきた。当時山の中にあったゴミ捨て場に出かけたら、そこに啄木の本が私を待っていた。それを持ち帰り読んだのが、啄木との付き合いになる。

▼私の同僚に、酒を飲むと「啄木の句」を読み上げる男がいた。啄木の句数首を覚えているだけで、啄木のことをまるで知らない男だった。

▼中学で啄木の句を習った時、いたく感動し、数首覚えたという。宴会にはホステス(後にコンパニオン)を呼んでいた時代だが、酔いが回れば「啄木の句」を連発し、ホステスが「すごい!」と拍手をしていたのを思い出す。

▼家で飲んでも、酔いが回れば啄木を吟じたようだ。中学の娘さんが学校で啄木を習った時、誰か啄木の歌を知っているかと先生が訊ねたそうだ。

▼誰も手を上げなかったので、娘さんは恥ずかしそうに手を上げたという。「東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれてカニとたわむる」と言ったそうだ。

▼先生は「あなたのお父さんは、若い頃ステキな恋愛をしたのかもしれませんね」と言ったという。それを家に帰って父親に話した。

▼そんな美しい恋愛などしたこともないし、啄木のことは何も知らないので、恥ずかしいから、父兄参観日には行けないと、私に話していた。

▼実は啄木の石碑が、私の地域に10数年前から建っていた。啄木が来た形跡はないのだが、函館市内の啄木研究家がわけあって手放し、それが我が村に移設されていたのだ。

▼その移設先が、私の小・中の同級生の家の前だ。しかし、この場にあるのはふさわしくないと、昨年、函館市内の啄木ゆかりの地に戻った。

▼この移設を成し遂げたのが、元函館図書館長で、啄木研究家の岡田弘子さんだ。岡田さんの父の健藏さんは、函館図書館初代館長だ。自分の蔵書から、図書館を作ったという人物だ。

▼健藏さんは啄木研究家でもあったので、長女の弘子さんもその遺志を継がれたのだろう。今年95歳で没した。その石碑の移設が最後の仕事になったようだ。

▼健藏さんの発生で、啄木が函館を去った2年後の明治42年に、啄木が住んでいた青柳町にある函館公園内に、耐火構造の函館図書館が建設される。

▼その図書館、今は閉館しているが、公園内に資料館として存在している。そして私が住んでいたアパートは、新しくなったが、昔と同じ向きで建っていて、私の部屋も確認できる。

▼この図書館とアパートの前に来ると「少年老い易く学なり難し」という言葉が浮かんでくる。当時この図書館で、居眠りばかりしていた思いでしかないからだ。

▼高校時代(昭和39年から3年間)。日曜日、ちょっぴり高台にある公園を散歩していると、桜の大木の間から津軽海峡が見えた。海霧の多い季節には、青函連絡船の霧笛も聞こえていた。

▼今日のブログのタイトルは「田舎生活もいいものだ」だった。実はコロナも収束してきたので、なじみのお客様が来店し楽しい会話が出来たので、そのことを書きたかったのだ。

▼しかし、書いているうちに「啄木と私」のつながりになってしまった。でも、田舎暮らしゆえの、のんびり感がそんな流れになってしまったようだ。

  せわしなき都会にありて思う町
      函館・小樽・釧路など
              三等下
         (啄木の気持ちになって)

▼最近気が付いたのだが、私の地域に「宝徳丸」という漁船がある。啄木が1歳~18歳まで育った渋谷村のお寺が「宝徳寺」だ。

▼これって、なんの意味もないようだけど、意味がありげに考えたりするのが、田舎者の私の特徴だ。

▼ついでだが、北海道に私が好きな神田日勝という画家がいる。貧乏だった神田の結婚式の式場に家を提供した、女性と話をしたことがある。

▼なぜか啄木の話になった。その女性は「働けど働けど我が暮らし楽にならざりぢっと手を見る」。こんな句を書く男なんて「女にもてるはずがない」と怒っていた。

▼これが、私の神田日勝と石川啄木のつながりだ。こんな奇妙なつながりを楽しむのも、退屈過ぎる田舎生活のせいかもしれない。

▼いつものように長話になったので、ここらで「指を止める」では、無粋なので「筆をやすめる」。