▼数か月前からの傾向だが、夜中の1時10分頃に決まってトイレに起きる。なぜこの時間なのか解明はできていない。
▼数日前、やはりこの時間に起きてしまったので、トイレ後テレビをつけてみた。北海道出身のシンガー吉田美和さんの「ドリカム」の特集番組だった。
▼リーダの中村さんの言葉が、深く印象に残った。コロナ騒動の中、多くのアーティストが国民に元気を取り戻してもらうために、コンサートなどネットで無料配信している。
▼自分たちは音楽活動を通し、生活の糧をいただいている。もしコロナが終息し「無料でできるなら、無料にしたら」という声が出てくれば、生活が成り立たなくなる。
▼コンサートを観てもらったり、CDを売ったりりして生活していたというこれまでのシステムを、当たり前に思っていたが、実はそれは【古いシステムの中で、あぐらをかいていたのではないか】という疑問がわいてくる、という内容だった。
▼シンゾウは、戦後レジームの解体を叫び「憲法改正」を行おうとしている。しかし戦後75年で「憲法」まで古いシステムだと、烙印を押すのは間違いだろう。
▼良いものはさらに磨きをかけ、国家、国民の生命・身体・財産の保全に努めるのが総理としての資質なはずだ。
▼シンゾウの資質の無さを多くの国民は認めているのだが、なぜか長期政権が続いている。これもまた、午前1時10分と同様、解明が出来ていない。
▼「古いシステム」で、はっと思い出したのだが、半世紀以上も続く、函館市町会連合会だ。「若者の参加がない」「役員のなり手がいない」などという言葉は、随分前から聞こえている。
▼答えが分かった。「古いシステムの中であぐらをかいていたのだ」。組織が古く錆びついているのだ。最近使われなくなっているが「自己批判」が足りない組織なのだ。
▼役員は無報酬でボランティアだ。それが、正しくて崇高なものだと思い、それに参加しない者を憂いてばかりいるのだ。
▼町会ばかりではない、様々な募金活動団体もだ。本来の目的をはずれ、組織の維持だけで、無批判的に同じことを繰り返している。
▼「自己批判」無き団体が周囲を見渡せばたくさんあるように思う。役所もほとんど変わっていない。変わったのは鉄筋コンクリートの庁舎だけだ。
▼学校も漁協も農協も、本質的には何も変わっていない、古いシステムの中であぐらをかいているのではないか。
▼そう考えれば、戦後の日本のシステムは、ほとんどが米国型の教育により、構築されて来た。
だが、自分の所属する組織に、真摯に「自己批判」を加えてきただろうか。
▼ということになれば、シンゾウの「戦後レジームの解体」というのも、まんざらではないような気がする。しかし、シンゾウに足りないものも「自己批判」だ。その欠片すらない。
▼そう言えば若い頃「自己批判」なる言葉が、街中を走った。その頃の「自己批判」は、相手に対しそうせよというだけで、自分は正しいという考えが専攻していたように思う。
▼今日(9日)の北海道新聞で、一橋大名誉教授の吉田裕が「低調な戦争責任の議論」と題し、戦没者追悼式の在り方そのものを、改めて見直すべきだと主張している。
▼特にシンゾウが出席するようになってから、戦争に対する「自己批判」が薄れてきているという。「侵略戦争ではない」と、歴史を修正しようとする考えが、不遜な態度を生むのだろう。
▼自民党も、古いシステムにあぐらをかき過ぎている。野党も、反自民という古いシステムにあぐらをかいている。
▼そうだ、戦後75年とは「古いシステムにあぐらをかいている」というのを、見直す年ではないかと思う。と思ったら「自己批判」という、若い頃に浴びせられていた言葉が、妙に親しみを帯びてきた。
▼【戦後75年・国民総自己批判】と叫んでみたら、急にあたり一面に立ち込めていた霧が晴れた気分になってきた。
▼「自己批判」をすれば、コロナ後の新たな日常が、意外と見えてくるような気もしてきた。この言葉で、自分の中に住む古い考えや、自分が所属している組織を、今一度洗い直してみようと思う。
自己批判という風吹いて虚しくなる
三等下
▼数日前、やはりこの時間に起きてしまったので、トイレ後テレビをつけてみた。北海道出身のシンガー吉田美和さんの「ドリカム」の特集番組だった。
▼リーダの中村さんの言葉が、深く印象に残った。コロナ騒動の中、多くのアーティストが国民に元気を取り戻してもらうために、コンサートなどネットで無料配信している。
▼自分たちは音楽活動を通し、生活の糧をいただいている。もしコロナが終息し「無料でできるなら、無料にしたら」という声が出てくれば、生活が成り立たなくなる。
▼コンサートを観てもらったり、CDを売ったりりして生活していたというこれまでのシステムを、当たり前に思っていたが、実はそれは【古いシステムの中で、あぐらをかいていたのではないか】という疑問がわいてくる、という内容だった。
▼シンゾウは、戦後レジームの解体を叫び「憲法改正」を行おうとしている。しかし戦後75年で「憲法」まで古いシステムだと、烙印を押すのは間違いだろう。
▼良いものはさらに磨きをかけ、国家、国民の生命・身体・財産の保全に努めるのが総理としての資質なはずだ。
▼シンゾウの資質の無さを多くの国民は認めているのだが、なぜか長期政権が続いている。これもまた、午前1時10分と同様、解明が出来ていない。
▼「古いシステム」で、はっと思い出したのだが、半世紀以上も続く、函館市町会連合会だ。「若者の参加がない」「役員のなり手がいない」などという言葉は、随分前から聞こえている。
▼答えが分かった。「古いシステムの中であぐらをかいていたのだ」。組織が古く錆びついているのだ。最近使われなくなっているが「自己批判」が足りない組織なのだ。
▼役員は無報酬でボランティアだ。それが、正しくて崇高なものだと思い、それに参加しない者を憂いてばかりいるのだ。
▼町会ばかりではない、様々な募金活動団体もだ。本来の目的をはずれ、組織の維持だけで、無批判的に同じことを繰り返している。
▼「自己批判」無き団体が周囲を見渡せばたくさんあるように思う。役所もほとんど変わっていない。変わったのは鉄筋コンクリートの庁舎だけだ。
▼学校も漁協も農協も、本質的には何も変わっていない、古いシステムの中であぐらをかいているのではないか。
▼そう考えれば、戦後の日本のシステムは、ほとんどが米国型の教育により、構築されて来た。
だが、自分の所属する組織に、真摯に「自己批判」を加えてきただろうか。
▼ということになれば、シンゾウの「戦後レジームの解体」というのも、まんざらではないような気がする。しかし、シンゾウに足りないものも「自己批判」だ。その欠片すらない。
▼そう言えば若い頃「自己批判」なる言葉が、街中を走った。その頃の「自己批判」は、相手に対しそうせよというだけで、自分は正しいという考えが専攻していたように思う。
▼今日(9日)の北海道新聞で、一橋大名誉教授の吉田裕が「低調な戦争責任の議論」と題し、戦没者追悼式の在り方そのものを、改めて見直すべきだと主張している。
▼特にシンゾウが出席するようになってから、戦争に対する「自己批判」が薄れてきているという。「侵略戦争ではない」と、歴史を修正しようとする考えが、不遜な態度を生むのだろう。
▼自民党も、古いシステムにあぐらをかき過ぎている。野党も、反自民という古いシステムにあぐらをかいている。
▼そうだ、戦後75年とは「古いシステムにあぐらをかいている」というのを、見直す年ではないかと思う。と思ったら「自己批判」という、若い頃に浴びせられていた言葉が、妙に親しみを帯びてきた。
▼【戦後75年・国民総自己批判】と叫んでみたら、急にあたり一面に立ち込めていた霧が晴れた気分になってきた。
▼「自己批判」をすれば、コロナ後の新たな日常が、意外と見えてくるような気もしてきた。この言葉で、自分の中に住む古い考えや、自分が所属している組織を、今一度洗い直してみようと思う。
自己批判という風吹いて虚しくなる
三等下