薪割などという言葉も、今は死語の仲間入りになるのだろう。
昭和30年代、秋になると燃料確保のため、子供たちにも薪割りの仕事があった。鉞(まさかり)で薪を割り、物置に山ほど積み上げた。
子供なのに、大人と同じほどの仕事をしたものだ。
その鉞に似た半島が、青森県下北半島である。
今、鎌田慧氏の「下北核半島」を読んでいる。
1984年12月、下北半島大間町議会での原発誘致の決議文である。
「積極的に原子力発電所の誘致を図り、わが町が念願してきた地場産業の育成と、若い産業人の人材開発に寄与すると共に、さらに町民に広く就労の場を設定し、もって町民の福祉向上と明るく豊かな家庭生活を通して、伝統ある歴史を護り文化の向上を図るべきである」
大間町の役所や議会が、原発会社の出先機関に成り下がったことが、実証される文面だろう。
戊辰戦争以後、この半島に明治政府の逆賊会津藩2,700戸が移封され、23万石からわずか3万石の「斗南藩」となる。
この不毛の極寒の地で、耐えに耐えた会津藩士の苦労は想像を絶するものだ。
その先人たちの気骨を受け継いだはずの下北人、その会津魂も放射能でぼろぼろになる前に、多額の補助金で融けてしまったのだろうか。
薪・コークス・石炭・石油、そして原子力、敗戦からわずか66年、広島と長崎に落とされた原爆を燃料にするなんて、どうしてこんな馬鹿げたことになってしまったのだろうか。
幸いといえば、4月に当選した工藤函館市長は大間原発建設反対派である。
ヒグマに乗り腹巻を巻いた函館市長、津軽海峡を一跨ぎし、下北半島を引っこ抜き、それを担いで国会議事堂を真っ二つにしてしまう。
そんな初夢を見て、万歳したいものである。
※原子力船“むつ”。当時の青森県議長からいただいた、分厚い本が我が家にある。今まで開きもしなかったが、この本の中に「下北核半島」構想の、国家の陰謀が潜んでいるはずである。

昭和30年代、秋になると燃料確保のため、子供たちにも薪割りの仕事があった。鉞(まさかり)で薪を割り、物置に山ほど積み上げた。
子供なのに、大人と同じほどの仕事をしたものだ。
その鉞に似た半島が、青森県下北半島である。
今、鎌田慧氏の「下北核半島」を読んでいる。
1984年12月、下北半島大間町議会での原発誘致の決議文である。
「積極的に原子力発電所の誘致を図り、わが町が念願してきた地場産業の育成と、若い産業人の人材開発に寄与すると共に、さらに町民に広く就労の場を設定し、もって町民の福祉向上と明るく豊かな家庭生活を通して、伝統ある歴史を護り文化の向上を図るべきである」
大間町の役所や議会が、原発会社の出先機関に成り下がったことが、実証される文面だろう。
戊辰戦争以後、この半島に明治政府の逆賊会津藩2,700戸が移封され、23万石からわずか3万石の「斗南藩」となる。
この不毛の極寒の地で、耐えに耐えた会津藩士の苦労は想像を絶するものだ。
その先人たちの気骨を受け継いだはずの下北人、その会津魂も放射能でぼろぼろになる前に、多額の補助金で融けてしまったのだろうか。
薪・コークス・石炭・石油、そして原子力、敗戦からわずか66年、広島と長崎に落とされた原爆を燃料にするなんて、どうしてこんな馬鹿げたことになってしまったのだろうか。
幸いといえば、4月に当選した工藤函館市長は大間原発建設反対派である。
ヒグマに乗り腹巻を巻いた函館市長、津軽海峡を一跨ぎし、下北半島を引っこ抜き、それを担いで国会議事堂を真っ二つにしてしまう。
そんな初夢を見て、万歳したいものである。
※原子力船“むつ”。当時の青森県議長からいただいた、分厚い本が我が家にある。今まで開きもしなかったが、この本の中に「下北核半島」構想の、国家の陰謀が潜んでいるはずである。
