#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【未完のレーニン】意識と無意識の交錯

2014-01-23 | UNITE!NIPPON

写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、

【on_Flickr】DANCER_07


レーニンは「『自然発生的要素』とは、本質上、意識性の萌芽形態に他ならない」と言っている。
そして、社会民主主義者は、この無意識的なもののなかにある意識的なものを高めるということに他ならない。

しかし、この一方で、この意識の高まりとは「革命的な意識の高まり」であって、
そのようなものは先述したように、労働者階級の即自的な意識の外部にしか存在しえないものである。

つまるところ、それは労働者階級の自然発生的な意識にとって
「無意識」の領域に属するものが高まるということである。

無意識が意識であり、意識が無意識である。

こう言うと、レーニンの議論は救い難い混乱と錯綜に陥っているかのように一見思われる。
しかし、経済的領域政治的領域の峻別という視角から議論を整理すれば、混乱した外皮は取り除かれる。

すなわち、自然発生的な意識とは経済闘争において自然に労働者階級において発生する意識であり、
闘争が経済闘争にとどまるならば、革命を目的とする政治的領域に進入することはなく
革命政治から見れば、それは無意識的な闘争のままである。

一方で、革命的意識は労働者階級には自然には意識されえない、つまり無意識的なものである。
このままでは二つの意識、すなわち「経済闘争から発生する意識」と「革命的な意識性」は永遠に出会うことはできない。

しかし、レーニンにおいて事態はそうならない。

すなわち、資本制社会における搾取・抑圧が生じる場所が、
当然のことながら経済的領域においてである以上、葛藤は経済過程において現れる。
そして、経済闘争はこの搾取・抑圧を緩和することしかできない

一方で、資本主義的な搾取・抑圧の本当の原因は、
原理的に言えば、「労働力の商品化」というトラウマ的な出来事にある。

そしてマルクス主義とは、
この出来事によって創始された世界を覆すための思想と実践に他ならない。


だがしかし、この原初の視角が見失われ、
労働運動が労働運動にとどまることをよしとするならば、
搾取・抑圧の原因に遡行するための道は絶たれ、それらは永続される


してみれば、フロイト的に言えば、レーニンが為そうとしたことは、
かつて搾取・抑圧の原因を作り出したがそのことが忘却され、無意識的領域へと追いやられた「心的外傷」を、
全面的な「暴露」「煽動」を通じて労働者階級に認識させるということに他ならなかった。

そして、経済闘争が資本主義的経済闘争でしかありえない以上、
この無意識を労働者が自覚するためのイデオロギーは、
当然労働者の現存状態にとって外部から注入されるものとしてしか現れえない
同じく、労働者という範疇が経済的なものである以上、このイデオロギーは政治的なものでなければならない

こうしてレーニンの語るイデオロギーは、労働者階級に対して「抑圧されたものの回帰」として現れる。

労働者階級が、日々の搾取によってすでに病的状態(=神経症)に置かれているとすれば、
それを治そうとするレーニンが語りかける言葉は、その原因に労働者階級が突き当たることを促すものであり、
その原因の記憶が労働者階級にとって「抑圧されたもの」である以上、レーニンの言説は精神分析家のそれと同じ位相にある。

ゆえに、それは外部からの言葉として現れ、別の形を取った一種の神経症的なものをもたらすのである。

この神経症の交替が、レーニンにとって「進歩」を一義的に表すものであったことは言うまでもない。
なぜなら、それによって実現されるのは革命に他ならないからだ。
そして、それはフロイトの言う「精神性における進歩」とも合致する。
社会主義革命は前代未聞の出来事であり、表象不可能である以上、それへの信仰はまさに高度な「精神性」を要するのだ。


 ※フロイトにおける「精神性における進歩」とは…
 
 多神教であるトーテミズムは、「欲動断念」である一方で、性的支配者として息子たちの嫉妬・羨望を一身に集めた原父の殺害、
 そしてそれへの和解という「性的な」出来事ににこだわりつづけるのに対し、
 ユダヤ教にみられる一神教においては、タブーが神を造形することへの禁止へと集中することによって、
 「欲動断念」は欲動の起源(=性的なもの)から離れ、感官によってとらえることができない神を信じる…という、
 精神性のみによる信仰へと「昇華」されていることを、定義づけたもの。

 
 

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【Jan_22】キッコーゴ

2014-01-23 | works
武蔵五日市線の「武蔵増戸」駅下車。自宅からおよそ2時間。

3年ぶりの再訪近藤醸造株式会社

看板の文字に、時間の移ろいを想う。
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【未完のレーニン】民主主義とは?

2014-01-21 | UNITE!NIPPON

写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、

【on_Flickr】DANCER_07

  
  民主制は、少数者が多数者に服従することと同じではない。
  民主制は、少数者の多数者への服従を認める国家、すなわち、
  ある階級が他の階級に対して、住民の一部分が他の住民に対して、
  系統的に暴力を行使するための組織なのである。


ここでレーニンはデモクラシー・民主制を定義しようとしているわけだが、
この言い換えは大変興味深いものである。

一番目の文章では、民主制は「服従」ではないと言われている。
つまり、言い換えれば、民主制とは少数者が多数者に対して服従するという
決まりごと」、あるいはそのような「原則」や「主義」ではない…ということだ。

二番目の文章で言われているのは、民主制とはそのようなものではなく、
制度」や「機構」であり、もっと端的に言えば、「国家」や暴力行使のための「組織」である…ということである。

要するに、民主制とは「観念」ではなく「物質」である。

民主制は、「原則・主義」たることを欲しているにもかかわらず、
実際には「物質」的な「機構」ないし「装置」であるにすぎない、
ということをレーニンはここで言っている。

そして、この一節が置かれている場所にもまた注目せねばならない。

それは共産主義社会への移行が語られる第五章に入る直前であり、
すなわちそれは旧社会に関する記述の最後の部分であるということだ。

つまり、階級が存在する旧社会においては、
その最良の原則=民主制は、ついに原則であることを僭称するのみであり、
原則として通用しているものの実在態は物理的強制に他ならない
という洞察をここに見て取ることが出来る。




  
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【未完のレーニン】帝国主義による解決とその矛盾

2014-01-21 | UNITE!NIPPON

写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、

【on_Flickr】DANCER_07

帝国主義とは、国民国家が原則として民族共同体であり、
したがって基本的には地縁的な結合にもとづいているにもかかわらず、
それを無際限に空間的に拡張しようとするという、
そもそも途轍もない矛盾を孕んだ運動であった。

それゆえ、国民国家の帝国主義化という現象には、
国民国家の概念的否定が含まれていると言わねばならない。

このような矛盾を犯してまでそれが追求されたのは、
端的に言えば、一国内ではもはや有効に継続することのできなくなった資本蓄積を
国民国家を空間的に膨張させることによって継続させようとする要求のためである。

ハンナ・アレントはこのことを鋭く指摘している。

  帝国主義が成立したのは、
  ヨーロッパ資本主義諸国の工業化が自国の国境ぎりぎりまで拡大し、
  国境がそれ以上の膨張の障害となるばかりか、
  工業化過程全体にとって最も深刻な脅威となり得ることが明らかになったときだった。
  経済自体に強いられてブルジョアジーは政治化した。
  もし、不断の経済成長をその内在的な法則とする資本主義制度を存続させたいのならば、
  ブルジョアジーはこの法則を自国の政府にも押し付け、
  膨張が外交政策の究極の目的であると主張するほかなかったのであった。


この「ブルジョアジーの政治化」とは、われわれの図式で言えば、
ブルジョアジーから国家への力の備給の最たるものであり、
ブルジョアジーは自ら支配しない階級である以上、
それはブルジョアジー自身によるブルジョア的原則の否定であると言えよう。

ブルジョアジーによる国家への力の備給の量が高まれば高まるほど
国家の正統性が失われるということをわれわれは見てきたわけだが、
それが帝国主義国家の段階に達すると、国民国家(=ブルジョア法治国家)は
概念的にも実質的にも否定され、その正統性はゼロへと達することとなる。

それでもなお、資本蓄積が継続される限りこの構図自体は再生産可能であり、
再生産可能である限りは維持されうる。
しかし、言うまでもなく、この解決方法は矛盾をより一層爆発的なものへ
先鋭化させるものに他ならない。

つまり、この為の解決は、帝国主義諸国家は無際限の膨張を欲するが
一方で地表の面積は一定であるという矛盾に逢着し、
世界の再分割のための戦争を噴出させたのであった。

付け加えて言えば、今日かつてのような帝国主義国家が姿を消したからといって、
ここに語られた矛盾の本質は解決済みの問題となったわけではない。

資本主義を根本原理とし、資本蓄積が至上命題である社会において、
この矛盾が根本的に解決される道理はない。
そして、資本主義が純粋なものになればなるほど、
この矛盾は深化せざるを得ない。

本書で分析された資本主義と権力とが織り成す相互依存的な構造は、
たとえばマイケル・ハート=アントニオ・ネグリが「帝国」と名づけたような新しい形への再編成を受けつつ、
現在の世界をも強力に規定していると考えられるべきであろう。

すなわち、レーニンにおいていままさに問題となっているのは、
この構造からの不可避的な展開として現れる他なる社会の構図を導き出すことなのだ、ということである。
そこでは「特殊な力」を質的に凌駕するより普遍的な、したがって強力でありうる【力】の生成が問題となるであろう。

   ●

国家は「抑圧のための特殊な力」である。
そして、この定義から出てくることは、ブルジョアジーがプロレタリアートを、
すなわち一握りの金持ちが数百万の勤労者を「抑圧するための特殊な力」は、
プロレタリアートがブルジョアジーを「抑圧するための特殊な力」と交替しなければならない、ということである。








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【Jan_12】田村砂理衣

2014-01-21 | DANCE
田村砂理衣@シアター21フェス_vol.94神楽坂セッションハウス
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【Jan_12】anikots

2014-01-21 | DANCE
anikots@シアター21フェス_vol.94神楽坂セッションハウス
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【Jan_12】dEcOtOts

2014-01-21 | DANCE
dEcOtOts@シアター21フェス_vol.94神楽坂セッションハウス
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【Jan_12】カモンウルフ

2014-01-21 | DANCE
カモンウルフ@シアター21フェス_vol.94神楽坂セッションハウス
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【Jan_12】吉村摩耶

2014-01-21 | DANCE
吉村摩耶シアター21フェス_vol.94神楽坂セッションハウス
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【未完のレーニン】ブルジョア階級の国家への直接的依存

2014-01-20 | UNITE!NIPPON

写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、

【on_Flickr】DANCER_07

 
  〔中略)

ブルジョアジーと国家はあくまで分離しているということは、上記のような利点をブルジョアジーにもたらすと同時に、
ブルジョアジーにとっての致命的な弱点を生む。
…というのは、ブルジョアジーがブルジョアジーたり得るのは、プロレタリアートへの人格的支配は存在しない以上、
端的に言えば生産手段の私的所有が法的に承認されることのみによる。

言い換えれば、ブルジョアジーの存在根拠は法的規定による。それと同時に、法を定めこれを強制的に執行する機能は、
資本制社会においては国家に集中している。こうしてブルジョアジーは自らの武力には立脚しない以上、
自らの階級の存在根拠(すなわち私的所有の法的根拠)を国家に直接的に依存しているということになる。

つまり、ブルジョアジーは自らの力で自らをあらしめることができない…という弱さを持つ。

それゆえにブルジョアジーは、国家が中立的な外皮を纏いながらも実質的にブルジョアジーの代理たるように、
国家に対して影響力の備給を何らかの形でおこなわなければならなくなる
ここでレーニンは、官職の買収、議会の買収、官金横領などをこの備給の例としてあげている。

おそらくわれわれは、ここでその内容について詳論することはできないが、
アルチュセールのイデオロギーについての洞察にしたがって、
諸々のイデオロギー装置をそこに加えるべきだろう。

ブルジョアジーと国家を結ぶベクトルが、ブルジョアジーから国家への備給を顕す矢印のみでなく、
国家からブルジョアジーへ対しても描かれなければならないのは、このブルジョアジーの国家への直接的依存のためである。
そして、この時期のレーニンが革命の問題を、国家権力の問題に収斂させたのは、まさにブルジョア社会における
国家とブルジョアジーとのあいだの力関係が相互的なものであり、ブルジョア階級はその存立の可否を直接的に国家に負うこと
そしてそこにブルジョア階級のアキレス腱があることを強く確信していたことを示すだろう。

してみれば、プロレタリアート国家への移行の可能性は、言い換えれば革命の課題は、
プロレタリアートと国家とのあいだの直接的(物理的)闘争において、
プロレタリアートがいかに国家に勝利し、またブルジョアジーから国家への力の備給を防ぎうるのかという問題に収斂するだろう。
レーニンのあの一元的な【力】の生成とその強靱さが問題になるのは、この場面においてである。

     ●

さらにこの図の構造を再生産することを考えると、
この構図がきわめて不安定なものであることが理解される。

というのは、資本蓄積の要請から搾取が激化し、階級対立が先鋭になると、
それに比例して国家の位置が高くなり、そこに力を備給するブルジョアジーはより多くの力を得なければならないが、
ブルジョアジーがこれを得るにはプロレタリアートからの搾取を強めるほかない。

このことは階級対立の激化を必然的に引き起こすから、
国家の位置はより高くなり、そこに備給をおこなうことはますます困難になる。
したがって、ブルジョアジーはプロレタリアートへの搾取をより強める…という悪循環が生じる一方で、
国家の位置は、正統性を減じつつますます上方へと昇ることになるから、
国家から降り下ろされるベクトルはより長くその角度はますます鋭角的になり、
つまりその強度を増し、それに比例してブルジョアジーは自立性を減じることになる。

あるいは、より具体的に言えば、ブルジョア階級が自らの存立の基盤を、
国家による生産手段の私的所有の法的保障、
および国家の暴力によるブルジョア的法秩序の維持のみに依存するその依存度は、
構図の再生産によって累進的に高まるということだ。

ここで明らかになったのは、この構図の破滅的な不安定さである。

なぜなら、この構図を維持することの出来る限界は、
ブルジョアジーがプロレタリアートの維持再生産が可能な範囲で
プロレタリアートを搾取できる度合いという限界によって明らかに画されざるをえない。

しかしその一方で、資本累積にはその限界が原理的に存在しない。
したがって、ブルジョアジーは二律背反したふたつの命令を受けとることになる。
すなわち、彼らは一方で被搾取者階級の維持再生産のための限界内で搾取せよという命令を受けながら、
その一方で、資本累積の要請は、あらゆる限界をも踏み越えて蓄積することを命ずる。
したがってブルジョアジーは、資本累積の要請に呼応して搾取を無制限に強化し、この構図を極大化することもできなければ、
ある程度の水準に保つことも出来ない。
構図は不安定な動揺状態に置かれるほかないのである。


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【未完のレーニン】近代資本制社会における国家の実像

2014-01-20 | UNITE!NIPPON


世界史が階級戦争の歴史であることは、すでに古くから知られていた。
実際共産党宣言の新しさはその点にあるのではない。
共産党宣言の新しさと魅力は、それとは別のものである。
すなわち、階級闘争を人類史上唯一最後の闘争、
つまりブルジョアジーとプロレタリアートの緊張の弁証法的絶頂まで体系的に集中した点にあるのである。
多数の階級の間の対立は、一つの最後の対立に単純化される。

およそ単純化ということは強度の異常なる昴進を意味する。

     ●

この図式に、ブルジョア社会の構造の強さと弱さが集約されていると言ってよい。
言い替えれば、プロレタリア革命の困難と可能性とが同時に現れているということだ。

いま述べたように、この図においては、
ブルジョアジー(C1)とプロレタリアート(C2)とのあいだの闘争的な関係は、
ブルジョアジー(C1)と国家(state)とのあいだに置換される。

このことは、ブルジョアジー(C1)は実際には根源的にプロレタリアート(C2)と対立関係にあるにも係わらず
プロレタリアートと直接的に闘争せずともすむ、つまり階級闘争において自らの力を費消する必要がないということを意味する。

ブルジョアジー自身の代わりに国家がその闘争を代行してくれるからである。

支配階級が自ら武装することなしに支配を維持するシステムを手にしたのは、
有史以来おそらく初めてのことだろう。
この巧妙な仕組みが、ブルジョア社会におけるブルジョアジーの強みの一つである。

さらに、ブルジョアジーにとっての決定的に重要なもうひとつの利点がこの構図にはある。
ここでは、ブルジョアジー(C1)はもはや直接的にはプロレタリアート(C2)を支配しない。
なぜなら、述べてきたように、資本主義的搾取は人格的支配によってではなく経済過程を通じて行われてるからである,

したがって、ブルジョアジーの道具としての国家がなすべきことは、
この経済過程を支える商品売買秩序ーーより端的に言えば私有財産ーー
(ブルジョアジーにとっては生産手段であり、プロレタリアートにとっては労働力商品)を、
社会の全成員に対して普遍的に維持・保証することのみであり、
そしてこれを実行するのが法体系とその背後に控える国家の暴力装置である。

そしてこの際、
法秩序は社会の全成員に対して普遍的に妥当するものとして現れるため、
国家権力は脱人格化される。

かつてミシェル・フーコ―は『監獄の誕生』において、
犯罪の概念が王の身体という具体的人格に対する侵害から
抽象的な秩序に対する侵害へと変容してゆく近代の歴史過程を描いたが、
この過程は国家権力の脱人格化と相即していると言えるだろう。

このようにして、ブルジョア国家は、国家暴力の人格的起源を措定することのできない、
すなわち特定の人格とは無関係な(ものとされる)『法の支配』が貫徹する法治国家として、現れることとなる。
このことから次の事柄が帰結する。

それは、軍隊・警察・官僚からなるこの行政的執行能力ーーこの真のブルジョア国家権力ーー
の直接の人格的担い手は必ずしも資本家であることを要しないということである。
ということは、この執行能力がどのような階層によって担われようと、
それが私有財産的法秩序の維持執行権力として機能しさえすれば、
資本家階級は、商品経済的な価値法則を通じて階級搾取を自動的に実現することができるからであり、
したがって、それが資本家諸君の階級抑圧のための組織された暴力にかわりはないからである。

このことは、逆に言えば、ある国家権力がブルジョア権力であるか、否かは、
その直接の人格的担い手がブルジョアジーであるか、否かによって定まるのではなく、
それが私有財産的法秩序の維持執行権力として機能しているか、否かによって定まるということを意味する。

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【Jan_17】CRUSH_THE_TYMKS

2014-01-20 | DANCE
「幽霊坂としのののめ」@東中野RAFTより

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【Jan_19】リハビリ中

2014-01-19 | Photo-diary
今日も朝から松葉杖の特訓。

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【Jan_17】大江戸線中野坂上駅

2014-01-19 | Photo-diary
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【Jan_16】神田川和泉橋

2014-01-19 | Photo-diary
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