写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、
【on_Flickr】DANCER_07
レーニンは「『自然発生的要素』とは、本質上、意識性の萌芽形態に他ならない」と言っている。
そして、社会民主主義者は、この無意識的なもののなかにある意識的なものを高めるということに他ならない。
しかし、この一方で、この意識の高まりとは「革命的な意識の高まり」であって、
そのようなものは先述したように、労働者階級の即自的な意識の外部にしか存在しえないものである。
つまるところ、それは労働者階級の自然発生的な意識にとって
「無意識」の領域に属するものが高まるということである。
無意識が意識であり、意識が無意識である。
こう言うと、レーニンの議論は救い難い混乱と錯綜に陥っているかのように一見思われる。
しかし、経済的領域と政治的領域の峻別という視角から議論を整理すれば、混乱した外皮は取り除かれる。
すなわち、自然発生的な意識とは経済闘争において自然に労働者階級において発生する意識であり、
闘争が経済闘争にとどまるならば、革命を目的とする政治的領域に進入することはなく、
革命政治から見れば、それは無意識的な闘争のままである。
一方で、革命的意識は労働者階級には自然には意識されえない、つまり無意識的なものである。
このままでは二つの意識、すなわち「経済闘争から発生する意識」と「革命的な意識性」は永遠に出会うことはできない。
しかし、レーニンにおいて事態はそうならない。
すなわち、資本制社会における搾取・抑圧が生じる場所が、
当然のことながら経済的領域においてである以上、葛藤は経済過程において現れる。
そして、経済闘争はこの搾取・抑圧を緩和することしかできない。
一方で、資本主義的な搾取・抑圧の本当の原因は、
原理的に言えば、「労働力の商品化」というトラウマ的な出来事にある。
そしてマルクス主義とは、
この出来事によって創始された世界を覆すための思想と実践に他ならない。
だがしかし、この原初の視角が見失われ、
労働運動が労働運動にとどまることをよしとするならば、
搾取・抑圧の原因に遡行するための道は絶たれ、それらは永続される。
してみれば、フロイト的に言えば、レーニンが為そうとしたことは、
かつて搾取・抑圧の原因を作り出したがそのことが忘却され、無意識的領域へと追いやられた「心的外傷」を、
全面的な「暴露」「煽動」を通じて労働者階級に認識させるということに他ならなかった。
そして、経済闘争が資本主義的経済闘争でしかありえない以上、
この無意識を労働者が自覚するためのイデオロギーは、
当然労働者の現存状態にとって外部から注入されるものとしてしか現れえない。
同じく、労働者という範疇が経済的なものである以上、このイデオロギーは政治的なものでなければならない。
こうしてレーニンの語るイデオロギーは、労働者階級に対して「抑圧されたものの回帰」として現れる。
労働者階級が、日々の搾取によってすでに病的状態(=神経症)に置かれているとすれば、
それを治そうとするレーニンが語りかける言葉は、その原因に労働者階級が突き当たることを促すものであり、
その原因の記憶が労働者階級にとって「抑圧されたもの」である以上、レーニンの言説は精神分析家のそれと同じ位相にある。
ゆえに、それは外部からの言葉として現れ、別の形を取った一種の神経症的なものをもたらすのである。
この神経症の交替が、レーニンにとって「進歩」を一義的に表すものであったことは言うまでもない。
なぜなら、それによって実現されるのは革命に他ならないからだ。
そして、それはフロイトの言う「精神性における進歩」とも合致する。
社会主義革命は前代未聞の出来事であり、表象不可能である以上、それへの信仰はまさに高度な「精神性」を要するのだ。
※フロイトにおける「精神性における進歩」とは…
多神教であるトーテミズムは、「欲動断念」である一方で、性的支配者として息子たちの嫉妬・羨望を一身に集めた原父の殺害、
そしてそれへの和解という「性的な」出来事ににこだわりつづけるのに対し、
ユダヤ教にみられる一神教においては、タブーが神を造形することへの禁止へと集中することによって、
「欲動断念」は欲動の起源(=性的なもの)から離れ、感官によってとらえることができない神を信じる…という、
精神性のみによる信仰へと「昇華」されていることを、定義づけたもの。