写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、
【on_Flickr】DANCER_07
〔中略)
ブルジョアジーと国家はあくまで分離しているということは、上記のような利点をブルジョアジーにもたらすと同時に、
ブルジョアジーにとっての致命的な弱点を生む。
…というのは、ブルジョアジーがブルジョアジーたり得るのは、プロレタリアートへの人格的支配は存在しない以上、
端的に言えば生産手段の私的所有が法的に承認されることのみによる。
言い換えれば、ブルジョアジーの存在根拠は法的規定による。それと同時に、法を定めこれを強制的に執行する機能は、
資本制社会においては国家に集中している。こうしてブルジョアジーは自らの武力には立脚しない以上、
自らの階級の存在根拠(すなわち私的所有の法的根拠)を国家に直接的に依存しているということになる。
つまり、ブルジョアジーは自らの力で自らをあらしめることができない…という弱さを持つ。
それゆえにブルジョアジーは、国家が中立的な外皮を纏いながらも実質的にブルジョアジーの代理たるように、
国家に対して影響力の備給を何らかの形でおこなわなければならなくなる。
ここでレーニンは、官職の買収、議会の買収、官金横領などをこの備給の例としてあげている。
おそらくわれわれは、ここでその内容について詳論することはできないが、
アルチュセールのイデオロギーについての洞察にしたがって、
諸々のイデオロギー装置をそこに加えるべきだろう。
ブルジョアジーと国家を結ぶベクトルが、ブルジョアジーから国家への備給を顕す矢印のみでなく、
国家からブルジョアジーへ対しても描かれなければならないのは、このブルジョアジーの国家への直接的依存のためである。
そして、この時期のレーニンが革命の問題を、国家権力の問題に収斂させたのは、まさにブルジョア社会における
国家とブルジョアジーとのあいだの力関係が相互的なものであり、ブルジョア階級はその存立の可否を直接的に国家に負うこと、
そしてそこにブルジョア階級のアキレス腱があることを強く確信していたことを示すだろう。
してみれば、プロレタリアート国家への移行の可能性は、言い換えれば革命の課題は、
プロレタリアートと国家とのあいだの直接的(物理的)闘争において、
プロレタリアートがいかに国家に勝利し、またブルジョアジーから国家への力の備給を防ぎうるのかという問題に収斂するだろう。
レーニンのあの一元的な【力】の生成とその強靱さが問題になるのは、この場面においてである。
●
さらにこの図の構造を再生産することを考えると、
この構図がきわめて不安定なものであることが理解される。
というのは、資本蓄積の要請から搾取が激化し、階級対立が先鋭になると、
それに比例して国家の位置が高くなり、そこに力を備給するブルジョアジーはより多くの力を得なければならないが、
ブルジョアジーがこれを得るにはプロレタリアートからの搾取を強めるほかない。
このことは階級対立の激化を必然的に引き起こすから、
国家の位置はより高くなり、そこに備給をおこなうことはますます困難になる。
したがって、ブルジョアジーはプロレタリアートへの搾取をより強める…という悪循環が生じる一方で、
国家の位置は、正統性を減じつつますます上方へと昇ることになるから、
国家から降り下ろされるベクトルはより長くその角度はますます鋭角的になり、
つまりその強度を増し、それに比例してブルジョアジーは自立性を減じることになる。
あるいは、より具体的に言えば、ブルジョア階級が自らの存立の基盤を、
国家による生産手段の私的所有の法的保障、
および国家の暴力によるブルジョア的法秩序の維持のみに依存するその依存度は、
構図の再生産によって累進的に高まるということだ。
ここで明らかになったのは、この構図の破滅的な不安定さである。
なぜなら、この構図を維持することの出来る限界は、
ブルジョアジーがプロレタリアートの維持再生産が可能な範囲で
プロレタリアートを搾取できる度合いという限界によって明らかに画されざるをえない。
しかしその一方で、資本累積にはその限界が原理的に存在しない。
したがって、ブルジョアジーは二律背反したふたつの命令を受けとることになる。
すなわち、彼らは一方で被搾取者階級の維持再生産のための限界内で搾取せよという命令を受けながら、
その一方で、資本累積の要請は、あらゆる限界をも踏み越えて蓄積することを命ずる。
したがってブルジョアジーは、資本累積の要請に呼応して搾取を無制限に強化し、この構図を極大化することもできなければ、
ある程度の水準に保つことも出来ない。構図は不安定な動揺状態に置かれるほかないのである。