写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、
【on_Flickr】DANCER_07
帝国主義とは、国民国家が原則として民族共同体であり、
したがって基本的には地縁的な結合にもとづいているにもかかわらず、
それを無際限に空間的に拡張しようとするという、
そもそも途轍もない矛盾を孕んだ運動であった。
それゆえ、国民国家の帝国主義化という現象には、
国民国家の概念的否定が含まれていると言わねばならない。
このような矛盾を犯してまでそれが追求されたのは、
端的に言えば、一国内ではもはや有効に継続することのできなくなった資本蓄積を、
国民国家を空間的に膨張させることによって継続させようとする要求のためである。
ハンナ・アレントはこのことを鋭く指摘している。
帝国主義が成立したのは、
ヨーロッパ資本主義諸国の工業化が自国の国境ぎりぎりまで拡大し、
国境がそれ以上の膨張の障害となるばかりか、
工業化過程全体にとって最も深刻な脅威となり得ることが明らかになったときだった。
経済自体に強いられてブルジョアジーは政治化した。
もし、不断の経済成長をその内在的な法則とする資本主義制度を存続させたいのならば、
ブルジョアジーはこの法則を自国の政府にも押し付け、
膨張が外交政策の究極の目的であると主張するほかなかったのであった。
この「ブルジョアジーの政治化」とは、われわれの図式で言えば、
ブルジョアジーから国家への力の備給の最たるものであり、
ブルジョアジーは自ら支配しない階級である以上、
それはブルジョアジー自身によるブルジョア的原則の否定であると言えよう。
ブルジョアジーによる国家への力の備給の量が高まれば高まるほど
国家の正統性が失われるということをわれわれは見てきたわけだが、
それが帝国主義国家の段階に達すると、国民国家(=ブルジョア法治国家)は
概念的にも実質的にも否定され、その正統性はゼロへと達することとなる。
それでもなお、資本蓄積が継続される限りこの構図自体は再生産可能であり、
再生産可能である限りは維持されうる。
しかし、言うまでもなく、この解決方法は矛盾をより一層爆発的なものへと
先鋭化させるものに他ならない。
つまり、この為の解決は、帝国主義諸国家は無際限の膨張を欲するが
一方で地表の面積は一定であるという矛盾に逢着し、
世界の再分割のための戦争を噴出させたのであった。
付け加えて言えば、今日かつてのような帝国主義国家が姿を消したからといって、
ここに語られた矛盾の本質は解決済みの問題となったわけではない。
資本主義を根本原理とし、資本蓄積が至上命題である社会において、
この矛盾が根本的に解決される道理はない。
そして、資本主義が純粋なものになればなるほど、
この矛盾は深化せざるを得ない。
本書で分析された資本主義と権力とが織り成す相互依存的な構造は、
たとえばマイケル・ハート=アントニオ・ネグリが「帝国」と名づけたような新しい形への再編成を受けつつ、
現在の世界をも強力に規定していると考えられるべきであろう。
すなわち、レーニンにおいていままさに問題となっているのは、
この構造からの不可避的な展開として現れる他なる社会の構図を導き出すことなのだ、ということである。
そこでは「特殊な力」を質的に凌駕するより普遍的な、したがって強力でありうる【力】の生成が問題となるであろう。
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国家は「抑圧のための特殊な力」である。
そして、この定義から出てくることは、ブルジョアジーがプロレタリアートを、
すなわち一握りの金持ちが数百万の勤労者を「抑圧するための特殊な力」は、
プロレタリアートがブルジョアジーを「抑圧するための特殊な力」と交替しなければならない、ということである。