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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【山本理顕02】住宅は27年で取り壊される

2015-08-24 | memories
1年前に25年住んだ仙台の実家を手放すこととなったとき、
非常な異和感を覚えたのだった。

建築家山本理顕氏がハンナアレントの「人間の条件」を読み解く
「権力の空間/空間の権力」という本は、
そういった意味で、ボクの中のモヤモヤを晴らすものであった。

元々親の転勤でひとつどころに定住することなく方々を転々とする子供時代を送った身として、
場所に寄り添う「記憶」の大切さ、切実さは人一倍感じる人間だったと思う。

その場所の記憶が、無惨に切り刻まれ、金銭として消費されてしまう「社会」。

ずっと持ち続けていたその「社会」への不確実さは、
ハンナアレントご指摘の通り、「孤独の大衆現象」として
ますます現代社会を覆い尽くしている。

山本理顕氏は、空間が思想を定義づける「物化」について強い警鐘を鳴らしている。

無意識裡のうちに、社会の思想に取り込まれてしまう…この「物化」は、
すでに私たちの思考を雁字搦めにしてしまっているのだ。

このままでは明るい未来は、ない。
絶望的な状況が刻一刻と差し迫っている。

この本の内容を抜き書きすることで、なにかしらのヒントを掴めれば…と思う。

    ●

プライバシーが守られることは自由が守られることだった。

「人民の自由は、その私的生活のなかにある。けっしてそれを侵害してはならない。
政府をして、この単純素朴な状態を暴力そのものから守る唯一の力たらしめよ」
と言ったのはサン=ジュストである。

ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストは
ロベスピエールと共にジャコバン派を担った革命家である。

自由は私的生活の中にある。

こうした考え方は今でも私たちの中に十分に根を下ろしているように思う。
プライバシーを守ることこそが自由の象徴なのである。
それをプライバシーのためにつくられた住宅が象徴している。
自由は住宅の中に閉じ込められたのである。

性現象の場所を中心にする住宅はその役割を果たし終えれば、
つまり、自分の子孫を社会(経済的に組織された社会)の中に送り込めば、
もはやその役割を終える。

いつまでもそこにあり続ける必要はない。

実際、今の日本では住宅の存続期間はわずか27年である。

物理的な耐用年数はもっと長いにもかかわらず。
多くの住宅が平均して27年で取り壊されているのである。

世代サイクルことに作り替えられているわけである。
両親の死(世代の交代)によって家族の持続性はいとも簡単に消滅する。

27年で取り壊されるということは、
その都度、その場所に旧世代と共に、
そして周辺の地域社会の人びとと共に生きていたという
記憶の場所が消滅するということである。

「大衆社会は私的な家庭まで奪う」というのはそのような意味である。

世代サイクルごとに住宅は消滅する。

そしてその住宅の消滅は都市環境の継続性も破壊する。
隣に住んでいた家族がいなくなり、その住宅が取り壊されて、見知らぬ人たちが住みはじめる。

あるいはディベロッパーがいくつかの宅地を集約して、マンションに建て替える。
私たちの居住地ではそうしたことがすでに日常化してしまっているのである。

だれも今まであった景観に注意を払わなくなっているのである。
景観とはそこに住む人々の共有された記憶である。

もはや記憶は共有されない。

社会という空間の外観(景観)はめまぐるしく変わる。

だれ一人として、その景観の継続性に気を配る人がいなくなってしまったのである。
それが社会という空間である。

「孤独の大衆現象」とはそのような意味である。

その人がその場所に生きていたという記憶を切り刻んで、
それをことごとく金銭に変えて消費してしまう。

それが「社会」という空間である。

    ●

景観は凄まじく早いスピードで変化する。

「前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、
後に起こる者はこれを覚えることができない」(ハンナアレント「人間の条件」)


それが「社会」という空間である。私たちが住んでいる空間である。

「世界の物」をつくりたい。
未来に手渡す物をつくりたい…という意思を奪われ(労働力として搾取され)、
自らの未来への確信はただ子孫を残すことでしかない。

でも、その確信を記憶するような空間は一瞬にして失われてしまうのである。

自分が去った後、誰からも自分が記憶されない。

「1住宅=1家族」という住宅に住む住人たちは
プライバシーという密室の中に閉じ込められ、
そしていずれはその場所をすら失うことになる。

それは「自分たちが存在していた」という痕跡を奪われるに等しい。

自分が存在していたという痕跡を
何一つ残すことなく去らねばならないことを
恐怖したのはかつての奴隷たちであった。

「孤独の大衆現象」というのは労働者の奴隷化そのものである。

それが今の私たちの社会である。
現代社会においては「孤独の大衆現象」はますます加速化している。

そして建築はそうした社会に奉仕するものとなってしまっているのである。

建築の設計者は住宅を設計し、そして次にそれを取り壊すという世代サイクルの中心にいるのである。
その世代サイクルを前提とする都市空間の設計者なのである。


               (山本理顕著「権力の空間/空間の権力」より)


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