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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【May_30】「料理の人類学入門」by宮台真司

2020-05-25 | KANAZAWA
料理の人類学入門』by宮台真司@下北沢DawinRoom
日時:2020年5月30日(土)19:00〜21:00
ゲスト:宮台真司|社会学者・映画批評家・都立大学教授
料金:¥2,900 税込|配布テキスト資料付き

「人間以外の人間的な存在は料理を必要としない」故に、料理を考えることは、
自然から隔絶された人間中心主義の行く末を考えるコトになると同時に、
「共食=共に食べる」行為の減少、つまり共同体の喪失が倫理の喪失にもつながるのだ…
との考察を『料理の人類学』として語られる講座。

以下コピペ
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■なぜ人類は生き残るべきなのか。もはや少しも自明ではありません。
例えば、共同体的 な集まりtogethernessの必要を負担免除するシステム化(市場化と行政化)で、
人間は感情的に劣化していきます。これは必然です。

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■システム化(市場化と行政化)やそれを支えるテック化は、
負担を免除したい(=便利で快適にしたい)という、
遺伝的基盤に支えられた人間中心主義的なものでしたが、
汎システム化の段階に至って、人間をできる限りテックに置き換えたいという、
人間を不要にする方向で(=人間をノイズやコストとしてカウントする方向で)
脱人間中心主義化しつつあります。

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■我々の、人間中心主義的な料理の享受は、
人間と人間ではない生き物を、まるで自明であるかのように差別します。
そのことを前提として、社会の全てのプログラムが成り立っています。
「自然から間接化された結果、意図せず人間中心主義に陥って、生態系から復讐される」
という昨今の我々のあり方を、反省するための視座を与えるのです。

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■社会学は、家族を、「共住=ともに住む、共食=ともに食べる」
集団として、定義してきました。
1980年代とは経済的隆盛を背景に単身赴任が急増した時代です。
ただでさえバラバラになりつつあるのに、
残された家族が共食する機会も減ることで
──個人が多様な社会参画機会を得ることで──
家族の共同性が急に崩れていくのです。

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■食において最終的に問題になるのは、
認知recognitionsでなく、倫理ethicsです。
倫理は最終的に根拠がないものです。
ロジカルな根拠はないという意味です。
では倫理の基盤は何か。

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我々は、人類学的な時代を
生きていた頃に持っていた倫理を、
既に失ったのです。
理由を簡単に言うと、
環境──我々のsurroundings──が、
自然=世界であるより、
人間=社会になったからです。
我々とコミュニケーション可能なものが、
人間だけに限られたということです。
それが冒頭に「間接化」と表現したことです。


↓↓↓

■例えば、想像力が欠けた人たちは、
「自然食がいい」とか「有機野菜がいい」とかいう話をしがちだけど、
全部「身体にいい」という話に閉じ込められているでしょう。
これでは 駄目なのです。
スローフードという1980年代前半から始まった運動は、
そもそも原理的に 「オーガニック」も「トレーサビリティ」も
目的ではないことに注意しましょう。

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■汎システム化に抗うために、
まず「顔が見える範囲」に向けて、つまり仲間のために、
農作物にせよ工芸製品にせよ一生懸命に作るわけです。
仲間が食べるのだから仲間のためになるものを作ろうと思うし、
そういう努力を見ているから食べる人=買う人も、
スーパーマーケットよりは高くても仲間から買おうと思うわけです。
なぜかというと、仲間のために善いことをしようと思うという
事実性factualityが 「存在する」からですね。
つまり「我々が倫理を手放さないための運動」なんですよ。

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■他方、システム(市場と行政)に取り囲まれた我々消費者は、
自分の健康のために「オ ーガニックかどうか」「トレーサブルかどうか」
を気にして製品を需要し、会社や行政にクレームを付けます。
クレームの一部は法律や条令の立法legislationに繫がります。
だから「いいもの」を作らざるを得ません。
しかし、そこで働いているのは、
ウェーバーがいう「資本制のシステムで生き残るための損得勘定」です。
つまり、そこでは共同体(=仲間)が失われているがゆえに、
倫理が失われているのです。

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■平たくいえば、人間的な感情やそれに基づく倫理によって
「仲間のために良いものを作 ろう」と思っているのか、
「そうしないと売れないからオーガニックでトレーサブルなも のを作ろう」
「有毒な添加物を入れると法律や条令に引っかかるから添加物を控えよう」
と思っているのか、という違いです。

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■なぜ共同体を維持するのかというと、
それは「人間的なものの本質は、倫理にある」 と見るからです。
「人間的なものの本質は、善いことをしようと思うという事実性にある」ということです。
損得に閉じ込められず、損得を越えた倫理へと開かれるには、
まず共同体 が回復しなければいけません。
共同体が回復した時にだけ、我々は、その共同体=仲間を支えるものを守ろうという、
損得勘定を越えた内発性=内から湧き上がる力を、手にできます。

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■こうした機能的な連関についての思考それ自体が、実は生態学的な思考です。
生態学は エコロジーecologyの訳ですが、多くの人が誤解しているような
「自然は大切」というイデ オロギーではありません。
生態学的な思考自体は、ナチスやディープエコロジーがそうであるように、
どこまででも非人間的なものになり得ます。
そうならないために必要なのは、論理つまりロゴスではなく、
倫理つまり損得勘定を超える感情が働くという事実性です。


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