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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【奥崎謙三】ヤマザキ、天皇を撃て!

2013-10-19 | BOOKS&MOVIES
戦慄の著書である。

1972年(昭和47年)に出版された奥崎謙三さんの著作。
奥崎謙三さんとは、のちに「ゆきゆきて、神軍」において日本を震撼させた人物。

しかし、その天皇への恨みがどれほどの深い体験によって裏打ちされているか、知られることはなかった。
奥崎さんはどこまでも至極真っ当な人間なのだ。
勿論、彼が独居房で執筆した陳述書であるから、信じるコトはできない…と歯牙にもかけないオケラもいるだろうが、
パプアニューギニア戦線における1年にもおよぶ“敗走”がどれだけ壮絶であったか、
そしてそれだけの“敗走”が起こりうることを重々承知していながらも杜撰この上ない人員配備と食糧供給、無謀な飛行場建設計画によって、
【独立工兵第三十六連隊】千二百名はむざむざと犬死にすることとなり、皮肉にも投降した奥崎さん含む6名だけが日本の地を再び踏むこととなった事実を鑑みれば、
「天皇陛下萬歳!」を強いて、お国のため天皇のためと良民を戦地へ赴かせた国の責任、天皇の責任には果てしないモノがあることは、
真っ当な人間であれば、易々と判断のつくことだろう。

いま読み返しても、怒り心頭である。

   私は直感的に、この土人部隊には、土人はもちろんのこと、敵兵も必ず駐屯しているにちがいないと判断しました。
   道の北側は、の西側あたりまで、高さ1メートル余りの草が刈り取られて広場となっており、歩行は容易でした。
   私は道を西へ進むことは危険だと思い、道から二十メートルほど北側の草原に沿い、姿勢を草よりも低くして前屈みになって西へ進みました。
   草原の中程で二、三匹の犬にいきなり吠えられびっくりしましたが、大したこともなく、ようやくの西の端まで進みました。
   そこで草原は終わり、前方は密林になっていましたので、私は再び道に出て歩こうと考え、左へ曲がり、数歩進みました。
   すると草が刈り取られた広場に、幅二、三十センチの浅い溝が掘られてあり、その中に大便をして使った白い紙が夜目でもはっきりとわかりました。
   その傍らにはスコップが二丁おいてありました。私は立ち止まって、この急造の便所は敵のモノであると判断しました。

   その時、すぐ近くで、銃に弾をこめる音がしました。
 
   私が弾ごめの音のする方の暗闇を透かしてみると、十メートルほど離れた道端に建てられた低い分哨小屋の中で、
   五、六名の敵兵が地べたに折敷の姿勢で弾をこめている黒い影が見えました。発見されたのです。
   私はおどろいて踵を返し、草原の西端を茂みに沿って北へ逃げました。私が数歩走った時、うしろで銃声が響き、
   私は右大腿部と右手小指に鈍いショックを覚えました。逃げながら右手を見ると、小指は付け根から折れてぶらぶらしていました。
   私は北に真っ直ぐに逃げるとさらに弾を受けることになると思い、左側の茂みの中に飛び込み、敵から三、四十メートル離れた茂みの中で、
   静かにじっと潜伏しておりました。幸い、敵兵は私のあとを追いかけてきませんでした。

   しばらく経って落ち着いてから、私は軍袴を脱いで、右大腿部を調べてみました。
   傷は右大腿部を銃弾が貫通して、血が多く出ていました。私は生き抜くために、数時間前に、狂った田中軍曹から、
   天幕、飯盒、靴、革脚絆を取ってここまで来ましたが、いまでは田中軍曹同様、あるいはそれ以上に惨めな姿となってしまいました。
   このままでは、出血多量で死に、数日後には、今まで’死んでいった多くの兵隊のように醜く膨れあがり、山豚に死体を喰われてバラバラの白骨
   になるだろうと考えながら、死が急速に近づいたことを覚悟しました。
 
1年もの“敗走”は、このように土人と敵兵、そして熱帯独特の湿気と慢性的な餓えとの闘いだった。
それでも終に奥崎一兵卒は、長い敗走生活により満身創痍となり痛みと餓えによる精神的挫折から生きる希望を喪い、
「このまま犬死にするくらいなら、敵兵の銃で瞬殺されたほうがマシだ」と敵地に乗り込む。

その後、俘虜生活を経て日本へ帰国することとなった奥崎一兵卒は、ニッポンが戦前と同じような構造で存在していることに大きく狼狽する。
驚愕!驚愕!驚愕!驚愕の至りである…と。
「あれだけの戦争を興し、戦地であれだけの苦渋を強いた張の本人たる天皇が、なぜ今も君臨しているのか」
「戦地で犬死にした多くの兵士たちへの悔恨もなく、戦災復興へまっしぐらに嬌声をあげる国民に猛省はないのか」
そのような挫折に心根をへし折られながらも、父の死、母の死を境に生活を建て直すべく「バッテリー業」で生計をたて10年。
人間関係のトラブルにより殺人事件を起こし10年の禁固刑。さらに昭和四十四年、6年ぶりの天皇新年参賀式でパチンコ玉を発射、
「不敬罪」とも思われる罪状により1年六ヶ月の判決を受ける。この本はその時の陳述書が元となっている。

   私が、ニューギニアから生きて帰れたからといっって、私の戦友はみな生きて帰れなかったように、
   すべての人間の力や意志の強さには、おのずから限界があり、弱いモノであります。
   ですから私は、強い力や意志を持った、例外的な特異な人間を基準にしないで、弱い力と意志を持った、一般的な、
   普通の、弱い人間を基準にして、それに合わした社会をつくるのが正しいと思いました。
   
   どんなに世界一強い力と意志を持った人間でも、この地球上で独りだけ生きていくことはできないという当たり前のことに、
   独房で私は初めて気がつきました。そして、それは、自然(神)が人類を無限に進歩、発展させるためにはそうするより仕方がないから、
   故意に人間をそのように独りでは生きられない、弱い非力な、動物としては不具な人間を創造したのだと思いました。
   私は、人間というものの非力さと限界を知ると、私を独居房で空腹も感じないで生かしてもらっていることが、
   自然(神)に対してありがたくて、あまりのもったいなさうれしさに、独居房で何回も涙をこぼしました。

   本来ならば、私は、戦友たちと共に、ニューギニアの密林の中で、とっくの昔に餓死して、
   密林の肥やしか、山豚か気味の悪い虫の餌食になっているところなのに、
   自分の意志と力以外の意志と力によって、私は特別に多く、過分に生かされているのだと思いますと、
   それに応じて私は自然(神)や世の人に対して何かお返しをしないでおれない気持ちにかられました。
   そのためには、やっぱりすべての人間が人間らしく、平等に過不足なく生きられ、心身ともに健康に、強く美しく
   清く明るい毎日を送り、一生のあいだ、平和、幸福、自由な人生を過ごして、本当に自然死できる構造の社会をつくるために、
   残生をかけて工夫と努力をしなければならないと思いました。

   そして、すべての人間を永遠に平和、幸福、自由にすることのできる唯一の方法は、
   天皇や天皇的なものがまったく存在しない、弱い平等な万人一様の人間性にあわせてつくられた、
   すべての人間が過不足なく毎日を生活することのできる構造の、数千名を単位、部分として、
   社会全体が故障のない、一つの機械のごとく有機的に構成された、まったく新しい構造の共同体しかないと確信しました。

どこまでも至極真っ当な、奥崎謙三さんであった。
この真っ当さを証明するかのように、ボクは一冊の本にこのあと巡り会う。

【豊下楢彦】安保条約の成立

この本における天皇外交の史実で、ボクは眼をひん剥かれるような事実に突き当たるのだ。


   



 

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