#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【永岡大輔】無意味の背中 その2

2010-01-20 | ACT!
1月20日。水曜日。
4月上旬並の気温らしい。17度。
体感は少しあたたかい…ぐらいか。
4時起きの人間には、あまり変わらない。

      ●

神楽坂へ、永岡大輔氏の個展へ足を運ぶ。

年末、サイトヲさんの紹介で知り合ったアーティスト。
山形出身ということで、勝手に親近感を持つ。

「こころヶ3号」という作家のブログが、
制作過程における実直な思いを吐露していて、さらに好感を持つ。

本人は居ないだろうな…と高を括って訪ねてみたら
ギャラリーに同時到着の奇遇も手伝って、ゆっくり話をすることが出来た。

話をすればするほど、
彼の中には、雄大な蔵王を象徴とする
山形の自然が源泉としてある。

11月にパリで開催した個展では、
「形見」をテーマに、倒木を炭にし、
そこから派生するイメージとして
ギャラリーの壁に大木をドローイング。

「生と死」を常に見つめ、
その境界線を行ったり来たり。

少年期に蔵王の山奥で
カモシカに見つめられた体験が、
自然を畏怖する作品につながったのだという。

      ●

今回のテーマ「無意味の背中」も
パリにおける経験が作家を一歩前に押し出した。

  今回の展示で飛び込んだパリと言う街は
  何かすでに失われて広大な空虚になった上に張った薄い氷の上にある街で
  みんなそれを薄々感じながら目の前を見て生きている。。。
  そんな感じの所だった。
  だから、欲望に対して忠実だし、合理性が幅を利かせている。
  僕のような人間と違って
  はっきりとしたオンとオフが必要な理由も
  そこにあるんじゃないかなぁ。

  これが良い事かどうかはまだ解らない。
  ただ、人間にとって、
  一生何か大事なものから目を背けて生きるには
  あまりにその後に訪れる反動が大きすぎるんじゃなかろうか?
  我々はゆっくりと「信じる」と言う事を
  取り戻さねばならない。
  そんな気がした。

  故に
  意味と無意味のボーダーを自らが曖昧にする行為をもっとしなくては。。。
  とも思った。
    (永岡大輔ブログ「こころヶ3号」10月12日より)

      ●

その真意はわからない。

しかし、巨大なヤモリ(夜守=夜の守り神)を鉛筆1本で執拗に描く姿勢や、
こちらを凝視するカモシカの角(ツノ)が森に変容するモチーフを見て、

作家は描くことで、人間世界に何かを取り戻そうと祈祷しているような印象を受ける。

パリで感じた違和(異和)感がそのまま、「ムイミ」を想起させ、
人間本位で測られる一面的な世界を表出することで、
そこに隠れたAnother Worldの存在を呈示しているような、気がした。

作品を創出する過程で生まれた
「紙の切れ端」や「消しゴムのカス」にも
作家は愛情をもって接する。

今回はその「紙の切れ端」を再編集して、新たな作品の道標とした。
その姿勢が何より、すべてを包含しようとする意志の顕れだと思った。

   「みんなちがって みんないい」

金子みすずの詩じゃないけど、
意味×無意味を超えた世界に挑もうとしている
永岡大輔の真摯な感性は今、ビンビンに振れている。




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【永岡大輔】無意味の背中 その1

2010-01-20 | ACT!
いつからだろう。
気がつくと「ムイミ」と言う巨大な生き物の背中に、私は乗っていた。

黒色のムイミの背中は、美しい満天の星空のようだ。目を凝らしてみると、
湿気を含み光沢のある黒い小さな粒がキラキラと集まってこの生き物を造り上げている。

刹那、ムイミの背中の中に右手を入れてみる。
もちろん興味本位。
期待に反して、ムイミの内部は何の感触もない。
温度もない。
そしてゆっくり手を引き抜く。

もう手が出てきても良いはずなのに、右手が見えない。
いや、手がない。
痛みがないから解らなかったが、手首から先が消えている。

今度はもう少し深く、腕まで入れる。

まだムイミの体内のすぐそこに落としたかもしれない私の手を取り戻す為に咄嗟にした行為だ。

だが、またやはり何の感触もなく、消えた手の存在もない。
それどころか、今度は深く入れた腕までが消えてしまう。
痛みがないと言う事は、こんなにも事態を飲み込めなくするものか。
消えた腕を見つつも、悶絶するうめき声すら必要としない。

どうやら、ムイミの内部に浸したものは、消えてしまうらしい。
冷酷な喪失感がゆっくりと私を襲い始めた。

遠くを行く人の姿を見付ける。
助けを求めるため、私は手を振った。
その人も手を振りかえす。

はたと、自分の混乱ぶりに気がつく。

今失ったはずの右腕を、いつもの習慣で私は振っていたのだ。
正確には振った気になっていたのだ。
そもそも痛みすらないこの喪失を、すぐに認識するなんて不可能だ。
改めて、私は残っている左腕で手を振った。
両手で手を振りかえす人。

すると、にわかに左手に何かが当たる。

同時に失ったはずの右手にも何かがぶつかる感触。
顔を見上げれば、私の右手は左手に触れていた。
いつも通りの私の右手だ。

私はムイミの背中から、どうしたのか解らないが、右手を取り戻したのだ。

相変わらず私は今もムイミの背中に乗っている。

神楽坂【artdish】永岡大輔個展「無意味の背中」
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