私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

藩学校の開校式

2010-02-12 20:06:04 | Weblog
 光政侯は、寛文9年7月25日の藩学校の開校式に、明石に蟄居していた蕃山先生を招聘して、その式の一切を取り仕切らせています。
 
 その式次第が、次のように記録に残っています。

 「藤樹先生書する[至聖文宣王]の御懸物が懸けてある中室の扉を、まず、蕃山先生が、おごそかに開けます。そして、香案(香炉を載せた机)の前に進み、香を焚きひれ伏します。老中番頭物頭(岡山藩の重役方々)以下諸生(学生)に至るまで、後ろの講堂に控えており、先生に合わせて一斉に深々と拝礼します。それが済むと、今度は参加者全員で孝経を読みます。その後、蕃山先生は霊位の胙(ひもろぎ)(米か?)を取って、中室の中座に置いて戸を閉めます。式に列席した重役たちは、手ずからその胙を取って席に戻ります。参加した学生たちには、蕃山先生の弟泉八右衛門と津田永忠が分けて与えます。
 それが済むと、今度は師範の三宅可三が孝経を講じて、総て終わります。」

 大体このような内容ですが、この胙は米であったのか何であったのか、又、どこに置いてあったのか、蕃山先生が中座に置いた胙と御重役たちが取った胙とどう違うのか、孝経のどの部分を参加者全員で読んだのか、三宅某が講じた孝経は何処の部分であったのかは分かりませんが、このように執り行われたと書かれてあります。

 なお、光政侯も藩主の綱政侯もこの式にはご出席なされてはいません。綱政侯が、初めて御参校されたのは、その年の9月20日だと言う記録があります。また、光政侯が、初めて御参校されたのは、翌年の寛文10年5月14日だったのだそうです。江戸にいたため開校式の時には出られなかったのです。光政侯が初めて御参校された時に、蕃山先生が御供をしたのかどうかは記録にはありませんが、多分、この時、先生は、まだ、岡山にいたことは確かですから御供したのではと、私は推察しています。
 蕃山先生が、再び、明石に帰られるのは、その年の、寛文10年の6月です。

吉野から山城国鹿背山へ、また、明石へ

2010-02-11 10:01:07 | Weblog
   この春は よしのの山の やま人と 
                なりてこそしれ 花のいろ香を
 
 と、いう歌を作って、吉野の山人となる事によって桜の本当の美しさを知ることが出来た、ああ、これからもずーうと吉野に住んで花守りになろうかと、先生は思っていたはずです。寛文7年の春です。それがどんな理由かわ分からないのですが、突然に、吉野から山城国鹿背山に移り住みます。
 その理由を、井上通泰は、例の由比正雪事件後、幕府による浪人監視が厳しくなっった結果、先生に対してもあらぬ疑いを懸けられたからではないかというのです。
 承応・明暦・万治と18年も経っていたにも関わらず、寛文9年の年に、蕃山の行動に幕府は疑いの目をかけていたのです。よほど、この由井正雪の幕府転覆計画事件に、幕府は右往左往したかという証にもなります。又それは、ひっくり返して言うと、この18年間というのは、幕府にとっては、これといって取り上げるほどの大事件も何もない、平穏無事な平和な世の中であったと言う事です。
 この間の明暦3年に、林羅山は死去していますが、彼ら一派の説く、幕府の学問でもあった朱氏学と、蕃山等の陽明学とが事あるごとに対立してい、お互いに相入れない関係になっていました。彼らの「陽明学憎くし」という思いが、その頂にいた蕃山に向けられ、攻撃をもろに受けられれるのです。
 当時の幕閣の中には熊沢蕃山を尊信する人、大老酒井忠清、老中板倉重矩、松平信之などが居たにも関わらず、人口に扉を立てることが難くなって、結局、この人たちが諮って、信之の城下明石の泰山寺に居寓させるようにしたのだそうです。寛文9年の事でした。その時、名も蕃山了介から「息游軒」に変えています。
 
 この明石の時代に読んだ蕃山の歌があります。
    “見る人の心からこそ山さとのうきよの外の月はすむらめ”
 です。

 空に懸かっている月は浮世の外にいてなんて美しいのであろう。あんなに、何物にもとらわれない世界に住んでみたいものだと言うぐらいの意味になると思います。すむは住むと清むのかけ言葉です。やるせない浮世を慮りの蕃山の心境です。
 

 この年に備前岡山藩に藩学校が出来きます。寛文9年7月25日です。光政侯61歳、蕃山先生51歳でした。
 幕府から睨まれ、明石に蟄居させられていた蕃山ではあったのですが、敢て、光政侯は藩学校の開校式に招聘しています。藩政から引退して池田綱政侯に藩主の座を譲っていたとはいえ、人間の大きさというか他の何物をも恐れないで自らの信念を貫き通す光政侯の真骨頂だと思います。他の誰でもが真似することが出来ないような出来事だったのです。
 

その後の蕃山

2010-02-10 11:50:33 | Weblog
 時代ははっきりとはしてないのですが、色々な事情により蕃山は岡山を離れ京都に移り住んでいます(寛文の初め頃か?)
 この時、京都で、先生は、どうも琵琶や筝を習ったような形跡があります。ある時「越天楽」の笛を吹いていたのを安部某という当時の笛の名人が、たまたま聞いて「これは大したものだ」と褒めたとも伝えられています、それくらい音楽にも長けていたようでした。その一方で、一条右府教輔などの多くの公家たちを教えています。
 そんな時、何故だか分りませんが、公家の中の三条某が、京都所司代牧野親成という人にに
 「熊沢蕃山が、今、公家たちを何かを頻りに教えている。この蕃山という男、かって由比正雪の事件と関わったとかいう噂もあった様な、あまり信頼のおけない人物のようです。用心された方がいいのではと思うのです。いっそ京都から追放の御処分をお出しになられたほうが後々の為になるのではとも思いますが、いかがでござりましょうか・・」
 と、申し上げたのです。
 
 そこで牧野親成は、早速、蕃山を京都からの追放処分にします。
 仕方なく先生は、一時、吉野に隠れられます、寛文7年の春の事でした。

  この春は 吉野の山の やまひとと
            なりてこそしれ 花のいろ香を
 という歌もお作りになっております。
 この吉野には一年ほど居たのだと思われます。これから蕃山の悲劇というか放浪みたいな生活が始まるのです。

「なにゅういよんなら」

2010-02-09 10:11:40 | Weblog
 「なにゅういよんなら」。こんな岡山弁お分かりですか。

 またまた、例の飯帝寶泥氏からメールを頂きました。毎度すまんこっちゃです。
 というのは、昨日の私のブログについてです。
 [おめえが、又、ええ加減なことばあ書きやがって。光政が花畑に教場を作ったのは、確かに、おめえがいうように寛永18年の事だ。せえでもなあ、花畠教場は寛文6年まで26年間もこけえあったんじゃ。・・・・・なにゅういよんなら。そのええだに、おめえがいいように、蕃山もその弟泉忠愛も光政に仕えて居るのじゃ。せえじゃけえ、この二人が、ここの儒員じゃったこたあ、ちがやあへんのじゃ。「当時」という言葉に惑わされているようじゃあ、まだまだおめえの読みはあせえのう」
 
 と、これまた、こっぱです。なお、「儒員」というのは、儒教を教えるために仕えら家臣のことだそうです。念のために、広い意味で先生という意味だそうです。

 「当時」ですか。出来た早々と思っていたのですが、そう言えば、花畠教場が花畠にあった時の事を大きく解釈すると「当時」ともいいます。、此の二人の先生がいたと言うのは真実です。私のはやとちりです。永山先生の過ちを指摘するとは私も相当なもんだと少々天狗になっていたのです。永山先生に謝らなければいけないと、此のご指摘を承って反省することしきりです。

 まあ、寶泥氏は、私みたいな者の書くブログをなんてよく見ていてくれのだろうと、毎度のことですが、感心するやら驚くするやらです。有難いことです。

岡山藩学校の開校式へ蕃山が

2010-02-08 09:47:19 | Weblog
 前に書いたのですが、岡山藩学校が、藩主光政侯の命令により、津田永忠や泉八右衛門等によって、西中山下に出来たのが寛文九年(1669年)です。
 井上通泰によると蕃山が岡山から京に上ったのは、寛文の初め頃だといされています。だから、此の藩学校が出来た寛文九年には、蕃山は岡山にはいなかったのです。当時は播磨の明石にいたのだそうです。しかし、光政侯は、敢て、明石にいた熊山蕃山を招聘して、開校式を行っています。
  
 明暦・寛文の頃には、藩政に対する光政侯と蕃山の考えは相当な違いがあった事は事実です。それも一つの原因となって、蕃山が岡山を致仕しています。でも、やはり藩の学校というか教育行政に関しては、この蕃山の功績に一目光政侯も置いていたのです。そこで、わざわざ、藩外の明石にいた蕃山を招聘したのです。

 そこで、ちょっくら、蕃山と岡山藩の教育の歴史につい、紐解いてみました。
 
 岡山に移封されてから、光政侯は以前から孔子を尊信されていたのですが、そんな関係から、是非、岡山に文武両道を学習させる場所をと思い「花畑」に学校の設置を思いつかれ、中江藤樹先生をお招きになったのですが、御断りになられます。でも、先生の門人の中から先生の子中江太右衛門を始め加世八兵衛なと数人を選んで岡山へ遣わされます。そのような経緯があって「花畠教場」が出来ます。寛永18年にです。

 この教場には「花畑会約」という生徒たちにための規則がありますが、これを作ったのが熊沢伯継先生だと言われていますが、この教場が出来た時は、まだ、伯継先生は、近江にいた時分ですから、多分、2度目に光政侯に仕えた時、「正保」の時代になってからではなっかたか思います。

 なお、岡山県通史で永山先生は、
 「寛文18年花畑の別邸を以て仮教場として教師を聘して藩士の子弟・・・・当時儒員の主なるものは熊沢蕃山。同弟、泉八右衛門。・・・・」
 と、書いているのですが、これはどうも怪しいのではないかと私は思います。
 それは、此の藩校の開校当時、まだ、蕃山先生は近江におられたのですから。そして、後に津田永忠と組んで活躍する蕃山先生の弟泉八右衛門は、まだ九州の松浦氏に仕えていた時代です。この人が光政侯に仕えるようになるのは、慶安3年の事です。、花畑の教場が出来て9年後になります????
 
 
 
 

光政侯の蕃山批判

2010-02-07 14:38:13 | Weblog
 仰止録等の書物には見えないのですが、柴田一氏によると光政侯と熊沢伯継との水魚の交わりが次第に薄くなっていった事実を物語る文書が残っていると言われるのです。氏によると
 「・・・近年了介申し侯事共在之侯へ共、同心に無之事故、取上げ不申侯・・」
 が、それだそうです
 「了介」とありますから、蕃山村へ退居してからのことだと思います。「同心に之なき事故」ですから、何の意見か分かりませんが自分と、即ち、光政侯の意見と違うので取り上げないことにすると言われているのです。

 隠居してから意見の対立のことだと思われますので、それは、多分、新田開発についての意見の食い違いを言っているのだと思います。

 また、光政侯から蕃山に宛てたとされる消息もあるのだそうです。

 「・・・ただいまの仕置せわしきなどと申し越し侯事在之に付き、とても其方如申様には仕間敷く侯間、仕置之事には指出で侯事無用と申遣・・」と。

 この消息文から見ると、今の政治がせわすぎるなんて、引退の身で藩政について、光政侯から蕃山に、「其方が言うようにはいきませんよ。藩の政治について今後一切の口出しは無用ですよ」と、厳重注意があったのです。
 これに対して、蕃山の光政侯批判もあったのだあそうです。蕃山曰く、
 「世間の取ざたに、民の仕置(政治のことです)のあしきは姫路、それに次いで備前と申し侯事・・・」
 と。これは光政侯に対す直接の消息文ではない、誰か友人か誰かに充てたものだろうとは思いますが存在するのだそうです。
 
 このような文の出所はと、色々と調べて見たのですが、そんな資料は、どこかに存在していることは間違いにのですが、結局、私には分かりませんでした。

 このような二人の消息文などを見ると、お互いに相手を批判し合って、こうなると、もう元の関係には修復ができないまでになっていたのかとも思って見たのですが、案外そうでもなかったのではと思えるようなこともありました。


  

光政侯のしたたかさに軍配が

2010-02-06 13:23:58 | Weblog
 捲土重来の思いを秘めて(?)蕃山(しげやま)村に退居したのですが、ここに何年、熊沢蕃山が住んでいたのかははっきりしないのだそうです。2年とも5年とも言われていたのですが、記録はありません。井上通泰は、その蕃山先生略伝に「数年の後(寛文の初めか」としか記してはいません。

 蕃山は、その後、京都に上り上御霊(かみごりょう)の辺りに寓居しています。何故、蕃山村から京に上ったかは、その理由もよく分からないのですが、一説によりますと、養子池田政倫との不仲が伝わっています。

 柴田 一氏によれば、その備前退去の理由として、蕃山の手紙に
 「・・・ちち(乳母)など初めて、万事いたし様悪く、父子の礼なく候。それを申し候へばむつかしく候、とかく我等居り不申候ばよく候と存じ候て、上方へ罷り上り候・・・」
 とあり、父と子の不和が原因で、それを解消するためには、自分が岡山から他の土地に行った方がいいのではないかと考えられ上京されたのだといわれるのです。

 またこの他、この頃より、光政侯と蕃山との間に、以前のような深い信頼関係が無くなったのが原因ではないかとも言われております。
 その一つに干拓事業に関する意見の対立があったようです。
 光政侯は積極的に干拓事業を推進して、津田永忠を中心として、次々と、その計画を練り、実施していった時代です。一方。蕃山は、この干拓事業については消極的であったと言われます。その理由は、新田開発には、どうしてもその水利が大きく関わり、新田と古田との間で争いが起り、岡山藩の政治に大きな汚点を遺しかねないと考え、新田開発には、むしろ、反対の立場にあったと言われています。

 ちなみに、光政侯が手を付けられた最初の[金岡新田]は、明暦三年に出来ています。この年に、蕃山は蕃山村に退居しております。また、次に出来上がった[松崎新田]の時には、きしくも、たぶん、蕃山が、岡山を出て、京へ上った年であると考えられます。
 この頃から津田永忠の活躍が、蕃山にとって代わって岡山藩の中で目につくようになるのです。
 そんなことが、蕃山が京に出て行く、大きな理由と関わりがあったのかもしれません。

 このように歴史的に見ても、岡山藩では蕃山の影響が、失われ、若い永忠の活躍が、というより、光政侯の独自色の藩政へと移って行った時代だったのです。
 結局、蕃山と光政侯の勝負は、どう見ても光政侯のしたたかさに勝敗を上げざるを得ません。

蕃山了介と名乗る

2010-02-05 12:21:49 | Weblog
 そんな光政侯との間に繰り広げられた心理戦争に勝利したと伯継先生は、明暦3年正月に、和気郡蕃山(しげやま)村に閑居します。この村は元寺口村と言っていたのですが、先生の采邑でしたから、この時に「蕃山村」にその名前を変えたのだそうです。

 この蕃山村と付けたその名前の由来も言い伝わっております。それによりますと
 
 「風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ 砕けてものを 思う頃かな」という百人一首の歌人に「源重行」という人がいますが、この人が詠んだ歌で、新古今集に、
     つくば山はやましげ山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり
 という歌がありますが、この歌にある「繁山」から「しげ山」、そうです、その「しげ」を「蕃」という字に置き換えて村名にしたのだそうです。
 
 この歌には、我が恋の為には、どんな苦労をしてでも、これが葉山です。また、どんな邪魔があろうとも、これがしげ山です。必ず、その目的は達成しますよという、強い不撓不屈の精神が込められているのだそうです。

 寺口村をわざわざ蕃山村に変えて、そこへ隠居したというのは、考えようによると、今は自分は隠居したが、いずれ、必ず、捲土重来して岡山藩政の一翼を担ってみせるという強い意欲が十分に見えるように私には思えて仕方ありません。
 そして、また、自分の名前も蕃山了介と名乗るようにもなります。名前からも先生の、そんな意欲が伺われます。39歳ですもの。これからが人生の重要な部分になる時ですから、おいそれと、一時的には撤退するが、周りの藩の重臣たちには決して負けはしないという思いはあったと思います。

 この先生の蕃山村への引退については、「伯継。殺すべし」という風評が藩内のあちらこちらから巻き上がるように起こっていたのを察して、藩主光政侯が先生をわざわざ岡山から退かしたのだという説もあるようですが???
 若しこの退却させたという説が正しいとするなら、私の心理戦争なんて、てんで話にもなんにもあったものではないのですが。

 このような伯継と光政侯に関する記事は仰止録にも、まして有斐録にも出ていません。念のために。
 

伯継先生と光政侯の駆け引き

2010-02-04 20:25:07 | Weblog
 鹿狩りの時の手足に負った負傷によって、前々から思っていた通りに、岡山藩政から身を引こうと考えられた先生でした。
 公の「許さず」という人声で、それが叶わなくなります。
 それからのこの二人の駆け引きが、また面白いというか、とても興味ある心理作戦が繰り広げられます。
 そこらあたりの様子を、又、「熊沢了介先生事跡考」から覗いてみます。

 その時、光政侯には庶子八之丞君というお方がおられます(三男です)。所謂、この八之丞君の母は光政侯の侍女ですから、正当なる池田家の跡を継ぐような若君ではなかったのです。子飼いの一生部屋住みのお方で終わることが約束されているような人でした。
 このお方を熊沢家の養子に迎えようと先生は光政侯に願い出ます。そうしますと、光政侯は、まあ、この辺りで先生の希望をかなえてやると、まさか、突然には藩政から身を引くとは言わないであるうと思われて承諾するのです。そのあたりの様子が、次のように記されています。

 「・・・公亦其遯志を止めんと思しけるにや、請うにまかせられ・・・」
 と。

 でも、この八之丞が熊沢家の養子が決まると、先生は
 「即先生家務を譲り」ます。
 それもです、熊沢姓でなく池田姓として、身分は先生が頂いていた「組士の番頭」のままです。なお余談ですが、この後、綱政侯の時にです。この八之丞君は、一万五千石を領し池田丹波守従五位政倫朝臣と名乗ります。
 それを受けて、先生はのうのうとではないのですが、ご自分の意思の通りに岡山藩の政治から身を退かれるのです。39歳という若さです。

 これからも分かるように、結局、この藩主光政侯と先生との二人の勝負といいますか駆け引きは、先生のほうに軍配が上がるようです。でも、面白いことに、ここまでは先生の頭に描いた通りに物語が展開されますが、やっぱり自分の思い描いた道通りにはいかないのが、決まり切っている事なのですが、それが人生という厄介なものなのです。この辺りから、少しずつ先生の設計に狂いが生じて来るのです。
 

公 泰然として固く許さず

2010-02-03 10:49:53 | Weblog
 公とは、当然ですが岡山藩主池田光政侯です。鹿狩りの時崖から落ちて「手足を傷れり」その為に、公務に支障が出るから辞めさせてくれと頼みます。
 「泰然として固く許さず」
 と書かれてあります。
 辞書によると、泰然とは、ゆったりと構えてどっしりと落ち着いている様子という意味だそうです。
 その光政侯の「許さず」と言った時の声やその態度が目に見えるようです。もし、あの松本白鸚翁に演技させたらと思うと、自然に笑いがこみあげてきます。また序でに、それを聞いた伯継先生の何とも云われない様なやるやるせないような演技は、どの俳優さんが似合うだろうかとも考えてみました。ひょっとしたら長門裕之か三国連太郎辺りが似合うのかもしれませんね。松本幸四郎の役柄ではないと思います。

 つい余興になりましたが、こんな二人の会話があった事は事実っです。でも、端からやる気すらなくしてしまった伯継先生、どうしたら、主君光政を納得させるようなことはないかと色々模索します。
 その一つとして、その当時、光政侯の三男、池田八之丞という庶子に、当然、部屋住みの身分ですが、目を付けたのです。母は光政侯の侍女でした。その池田八之丞を、明暦二年正月に、熊沢家の養子として頂きたいと、先生は光政侯に申し出ます。先生38歳の時です。光政侯は、まさか直ぐにも、その八之丞に家督を譲って隠居とも思われずに承諾します。ところがです。翌年の明暦三年冬3月には、光政の思惑と相違して早くも隠居してしまいます。

意地っぱりな先生

2010-02-02 12:38:02 | Weblog
 熊沢伯継先生が、明暦2年(1656年)、和気郡木谷村で鹿狩りをした時のことです。先生は崖より落ちて、手足を傷つけられる事件が起こります。どの程度の負傷であったかは分かりませんが「傷れり」とありますので、余り大怪我ではなかったのではと思われますが。 次に、「嘉遯(かとん)の志ありて」と「熊沢了介先生事跡考」には記されています。これは、どうにかして、その職を退こうと、常々思っていた、という意味です。
 この言葉から察するに、先生は、当時38歳です。光政侯に仕えて11年目です。余りその職にあることが面白くなく、常々、いつか機会を見て職を辞さなくてはならないと考えられていたという事は確かです。
 その機会を、此の時の傷に充てたのです。

 その先生の岡山藩の藩政参与から身を引こうと考えられた原因になったのは、藩の重役たちの先生に対する妬みや恨みによるものが大きかったようです。
 まず、挙げられるのが、何事にも藩主光政侯の信頼が厚く、藩政に於いてこれ見よがしに我物顔にふるまう自尊的な先生の態度への恨みです。
 次には、俸禄も、300石から、一気に3000石に加増されたことに対する先生への妬みがあげられます。
 それから、これが結果的には一番大きかったのかもしれませんが、藩の重役達の俸禄を、それまでの三分の一に減らす案を光政侯に進言した先生への、重役たちから相当強い恨みや反感があげられます。
 最後に、これは妬みや反感ではないのですが、自分の責任をきちんと果たされたことです。 前にの触れましたが、あの由井正雪幕府転覆計画に加担したと疑われた紀州徳川頼宣侯の先生に対する信頼が厚かったために、岡山藩も何か此の事件に係ったのではないかと嫌疑が掛けられた一つの原因になっていることに対して責任を取ったのです。

 こんな時に、鹿狩りの途中でご自分の手足が自分の不注意で傷ついてしまい、「軍務に堪えずとて、頻に職を辞せんと請う、其志確乎として抜べからず」と、「熊沢了介先生事跡考」には記されています。ここに書いている通り、確乎として抜くべからずです。「どんなことがあっても辞めさせていただく」と、先生の意思は相当な強固たるものであったようでした。
 それに対して、光政侯の態度はどうであったと思われますか?   これがまた奮っているのです。そこら当りの事は、余り長くなりますので、又、明日にでも。
 

吉備津神社の一日参りが始まりました

2010-02-01 12:27:35 | Weblog
 一週間も前でしょうか、今年から新しく始まる吉備津神社の行事、「月一日参り」の案内が家に届きました。二月朔、今朝、早速お参りしました。昨夜からの雨も上がり、如月にしては比較的温かな朝です。
 
 拝殿でのお払いと祝詞の後、本殿で玉串を奉奠しての二礼二拍です。その音は、今朝はなんだか神殿の中を横いっぱいに広がるように響き渡っていきます。それ以外は、何も変わらない何時も通りのお参りです。
 この横いっぱいに広がった拍手の音と一緒に、凍てついた2月の風も、真っ赤な神殿の屋根裏天井から、又、柱の間から吹き来て、身も心もさえかえり、何か特別の力を身体の中に入り込ませてくれたのではないかという不思議なる神聖な気分にさせてくれるような感じがしてきます。
 
 お参りが済んで、「気は心」とはよく言ったものだと、変な所に感心しながら人通りのない松並木を、一人、自転車を踏みす。その音に驚いたのでしょう、休耕田の草むらにたむろしていたのでしょうか、数十匹という雀が一斉に飛び立ち、電線に飛び移り、てんでてんでに、雀の着膨れ姿のファッションショウを披露していました。吉備線の気動車が、その向こうを通り過ぎていきます。

 何もない2月朔早朝の吉備津神社の風景です。お山は、まだ、薄霞を抱いて、眠りの中のようです。
  
  如月の 宮の拍手 横に延び
  着膨れの 雀驚ろかす 宮参り
  春まだき 吉備の中山 霞立ち 社の屋根の 如月の陽(い)き