私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

蕃山の六回の転居

2010-02-13 15:07:27 | Weblog
 寛文9年7月、岡山藩の藩学校の開校式に招かれた蕃山先生でしたが、約一年たらずの間、岡山に滞在しておられます。
 寛文10年の正月には講堂で諸生と孝経を読み、特別講義も行っています。それからしばらくは岡山に留まって、光政侯が、初めて藩学校に御参校になられた時等にはお側に侍っていますが、それから一月後の6月には、再び、明石に帰られています。それから9年間、明石の太山寺の傍らに建てた「息游軒」となずけた庵に住んでおられます。

 ところが、延寶7年に明石城主松平信之侯が大和郡山に封され、その時、蕃山先生も、やっぱり信之侯と共に明石から郡山に移られ、矢田山に住まいされます。
 郡山にあった天和3年には、大老掘田正俊侯の招きで、一時江戸へ下り、しばらく江戸への滞在しておりますが、「もうしばらくの間・・・」と、大老達に、江戸滞在を請われたのですが、固辞して矢田山へ帰ります。その後すぐ、松平信之侯は老中に任じられ、封を郡山から下総の国古河に移されます。でも、蕃山先生は、「この度は」と、そのまま矢田山に一人留まります。しかし、幕府の要人の中に、経済に長じている蕃山先生の噂を聞いて、信之侯に、是非、古河の地に招くようにと強く要請されます。そこで、先生も、致し方なくだろうとは思いますが、信之侯の御膝下の古河に住まわれるようになったのです。
 なお、信之侯の後を受けた郡山藩主になられた本多忠平侯も、やはり、蕃山先生を厚く敬服されて厚遇されていたのです。だから、先生にとっては、以前と変わらずに、ここは居心地の良い場所であったことには違いありません。でも、結局、古河へ転居されることになります。たっての愛弟子、信之侯からの要請があったのではと思われますが、そこらあたりの詳しい事情は分かりません。

 備前の自分の采邑である蕃山村を出てから、京都・吉野・山城鹿背山・明石・郡山・古河と6回目の転居になります。この事は、蕃山先生が、それだけの波乱万丈の人生を送ったと言う証拠にもなる事なのです。貞享4年(1687年)の8月でした。69歳の時です。
 

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