私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

蕃山先生の頗緩な蟄居

2010-02-17 21:46:21 | Weblog
貞享4年秋八月、蕃山先生が幕府の命によって下総国古河に移されますが、その年の12月になって、突然に幕府の用番老中であった戸田忠昌から古河藩主松平忠之に対して先生を禁錮するようにと沙汰があったのです。なお、この蕃山先生が受けた禁錮禁錮刑というのは、監獄に閉じ込める刑罰の事で、当時としては、大変重い処罰だったのです。
 突然でしたので、先生はもとより藩主忠之侯も相当驚かれます。そのように思い禁錮刑になせ処されたのかという理由ははっきりとはしていないのですが、大体、次の3つがあげられます。

 第一の理由は:
 先生が、時事について幕府に上書にしたのですが、それが幕府の方針に反していた為に罰せられたと言う説です。
 第二の理由は:
 先生の著述の中に、幕府の機密政策と相似た所があったため、秘密保持のために刑に処されたという説です。
 第三の理由は:(これが本当だろうと言われています)
 先生の門人に田中孫十郎という人がいたのですが、その人が幕府の大目付に任じられた時、先生に「政務上の心得を、是非、お聞かせください」と言って手紙を寄こします。その返事に書かれている内容が幕府に咎められたのだそうです。
 その先生からの返書を、最初は、この田中孫十郎という人は、自分ひとりの物として有難く押し抱いていたのですが、何かの機会に、つい、それを老中に見せてしまいます。その内容が幕府の方針と大いに違い、人心を惑わす元凶にもなりかねないと、禁錮刑に処されたと言う説です。
 
 この田中孫十郎に宛てた先生の手紙が今も残っています。それを見ると、そんな禁錮等の刑に処する程でもないように思えますが、先生の陽明学と対立していた幕府御用学問となっていた朱子学の宗家林家が、此の事件に関与していたのではないかという噂もあったようです。70歳にもなった老人の先生に対する処分です。いかに先生の陽明学に対して林家が恐れおののいていたのかを物語る一側面でもあると思われます。

 先生はこの嫌疑によって禁錮の刑に処されるのですが、それまでの先生の言動からしても、調べて見ると、それほど大げさな大騒動をするまでもないような、事件ではあったのですが、そこは封建社会の事です。一度、有罪を言い渡した者に対して、突然に無罪というわけにはいかず、結局、蟄居という処分にはなります。
 しかし、その処分は、刀は帯びてもよい、用人も置いてよい、屋敷内は自由に出歩いてもよいと言う頗緩な蟄居であったようです。
 夫人の亡くなる前の年の12月の事でした。

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