私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

意地っぱりな先生

2010-02-02 12:38:02 | Weblog
 熊沢伯継先生が、明暦2年(1656年)、和気郡木谷村で鹿狩りをした時のことです。先生は崖より落ちて、手足を傷つけられる事件が起こります。どの程度の負傷であったかは分かりませんが「傷れり」とありますので、余り大怪我ではなかったのではと思われますが。 次に、「嘉遯(かとん)の志ありて」と「熊沢了介先生事跡考」には記されています。これは、どうにかして、その職を退こうと、常々思っていた、という意味です。
 この言葉から察するに、先生は、当時38歳です。光政侯に仕えて11年目です。余りその職にあることが面白くなく、常々、いつか機会を見て職を辞さなくてはならないと考えられていたという事は確かです。
 その機会を、此の時の傷に充てたのです。

 その先生の岡山藩の藩政参与から身を引こうと考えられた原因になったのは、藩の重役たちの先生に対する妬みや恨みによるものが大きかったようです。
 まず、挙げられるのが、何事にも藩主光政侯の信頼が厚く、藩政に於いてこれ見よがしに我物顔にふるまう自尊的な先生の態度への恨みです。
 次には、俸禄も、300石から、一気に3000石に加増されたことに対する先生への妬みがあげられます。
 それから、これが結果的には一番大きかったのかもしれませんが、藩の重役達の俸禄を、それまでの三分の一に減らす案を光政侯に進言した先生への、重役たちから相当強い恨みや反感があげられます。
 最後に、これは妬みや反感ではないのですが、自分の責任をきちんと果たされたことです。 前にの触れましたが、あの由井正雪幕府転覆計画に加担したと疑われた紀州徳川頼宣侯の先生に対する信頼が厚かったために、岡山藩も何か此の事件に係ったのではないかと嫌疑が掛けられた一つの原因になっていることに対して責任を取ったのです。

 こんな時に、鹿狩りの途中でご自分の手足が自分の不注意で傷ついてしまい、「軍務に堪えずとて、頻に職を辞せんと請う、其志確乎として抜べからず」と、「熊沢了介先生事跡考」には記されています。ここに書いている通り、確乎として抜くべからずです。「どんなことがあっても辞めさせていただく」と、先生の意思は相当な強固たるものであったようでした。
 それに対して、光政侯の態度はどうであったと思われますか?   これがまた奮っているのです。そこら当りの事は、余り長くなりますので、又、明日にでも。