私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

蕃山が郡山に留まったのは

2010-02-13 16:54:16 | Weblog
 松平信之侯が老中になられて、郡山から奥州白河に国替されますが、蕃山は、以前明石から郡山に移られた時のように、今回は、白河へは行かれなかったようです。そのまま郡山に留まられます。
 それは、松平信之侯に代わって、新しく郡山城主になられた本多下野守忠平侯と蕃山先生と深い関係があったからです。
 
 この本多忠平侯の夫人が、池田光政侯の長女だったお方だったのです。当時、岡山藩では津田永忠と泉仲愛の二人が協議しながら、藩内の農民救済等のために[社倉法]を作っておりますが、その財源として、この本多忠平侯の奥方の湯沐料を利用します。
 夫人には、毎年五〇貫目宛ての銀を湯沐料として送付していたのですが、まだ送付されずにそのままになって倉に眠っていた銀があるのです。これを、凶作時等で生活に困っている農民を救うための資金にしたらと、目を付けたのです。それを借りて資金にして、一石について三升の利子という低利で農民に貸し付け、藩内の貧農の救済資金として運用していく方法を考え付いたのです。それが、中国の朱熹が考えた「社倉法」です。記録にはないのですが、多分、泉忠愛の智恵から出たものではないかと考えられます。
 寛文11年の永忠が光政侯に出した建議書の中に見える
 [泉八右衛門と私両人にて・・・」からも、このようなことが予想されます。
 その中で、永忠は言うのです。
 「大阪などの金融業者から借りると多くの利息は藩外に出るのですが、藩内にある資金を使うのですがら、利息等がそのまま藩内で流用され、延いては藩内の経済に潤いを与える結果になる」
 と。
 素晴らしき経済学者です。それを助けたのが蕃山の弟泉忠愛だったのです。

 こんな関係があったからでしょうが、新藩主本多忠平侯と蕃山先生との信頼関係も生まれ、藩士たちからの尊信も、また、あったのでしょう、居心地も前の信之侯の時と何ら変わることもなく、そのまま貞享四年八月まで、郡山に居られます。

蕃山の六回の転居

2010-02-13 15:07:27 | Weblog
 寛文9年7月、岡山藩の藩学校の開校式に招かれた蕃山先生でしたが、約一年たらずの間、岡山に滞在しておられます。
 寛文10年の正月には講堂で諸生と孝経を読み、特別講義も行っています。それからしばらくは岡山に留まって、光政侯が、初めて藩学校に御参校になられた時等にはお側に侍っていますが、それから一月後の6月には、再び、明石に帰られています。それから9年間、明石の太山寺の傍らに建てた「息游軒」となずけた庵に住んでおられます。

 ところが、延寶7年に明石城主松平信之侯が大和郡山に封され、その時、蕃山先生も、やっぱり信之侯と共に明石から郡山に移られ、矢田山に住まいされます。
 郡山にあった天和3年には、大老掘田正俊侯の招きで、一時江戸へ下り、しばらく江戸への滞在しておりますが、「もうしばらくの間・・・」と、大老達に、江戸滞在を請われたのですが、固辞して矢田山へ帰ります。その後すぐ、松平信之侯は老中に任じられ、封を郡山から下総の国古河に移されます。でも、蕃山先生は、「この度は」と、そのまま矢田山に一人留まります。しかし、幕府の要人の中に、経済に長じている蕃山先生の噂を聞いて、信之侯に、是非、古河の地に招くようにと強く要請されます。そこで、先生も、致し方なくだろうとは思いますが、信之侯の御膝下の古河に住まわれるようになったのです。
 なお、信之侯の後を受けた郡山藩主になられた本多忠平侯も、やはり、蕃山先生を厚く敬服されて厚遇されていたのです。だから、先生にとっては、以前と変わらずに、ここは居心地の良い場所であったことには違いありません。でも、結局、古河へ転居されることになります。たっての愛弟子、信之侯からの要請があったのではと思われますが、そこらあたりの詳しい事情は分かりません。

 備前の自分の采邑である蕃山村を出てから、京都・吉野・山城鹿背山・明石・郡山・古河と6回目の転居になります。この事は、蕃山先生が、それだけの波乱万丈の人生を送ったと言う証拠にもなる事なのです。貞享4年(1687年)の8月でした。69歳の時です。