私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

光政侯のしたたかさに軍配が

2010-02-06 13:23:58 | Weblog
 捲土重来の思いを秘めて(?)蕃山(しげやま)村に退居したのですが、ここに何年、熊沢蕃山が住んでいたのかははっきりしないのだそうです。2年とも5年とも言われていたのですが、記録はありません。井上通泰は、その蕃山先生略伝に「数年の後(寛文の初めか」としか記してはいません。

 蕃山は、その後、京都に上り上御霊(かみごりょう)の辺りに寓居しています。何故、蕃山村から京に上ったかは、その理由もよく分からないのですが、一説によりますと、養子池田政倫との不仲が伝わっています。

 柴田 一氏によれば、その備前退去の理由として、蕃山の手紙に
 「・・・ちち(乳母)など初めて、万事いたし様悪く、父子の礼なく候。それを申し候へばむつかしく候、とかく我等居り不申候ばよく候と存じ候て、上方へ罷り上り候・・・」
 とあり、父と子の不和が原因で、それを解消するためには、自分が岡山から他の土地に行った方がいいのではないかと考えられ上京されたのだといわれるのです。

 またこの他、この頃より、光政侯と蕃山との間に、以前のような深い信頼関係が無くなったのが原因ではないかとも言われております。
 その一つに干拓事業に関する意見の対立があったようです。
 光政侯は積極的に干拓事業を推進して、津田永忠を中心として、次々と、その計画を練り、実施していった時代です。一方。蕃山は、この干拓事業については消極的であったと言われます。その理由は、新田開発には、どうしてもその水利が大きく関わり、新田と古田との間で争いが起り、岡山藩の政治に大きな汚点を遺しかねないと考え、新田開発には、むしろ、反対の立場にあったと言われています。

 ちなみに、光政侯が手を付けられた最初の[金岡新田]は、明暦三年に出来ています。この年に、蕃山は蕃山村に退居しております。また、次に出来上がった[松崎新田]の時には、きしくも、たぶん、蕃山が、岡山を出て、京へ上った年であると考えられます。
 この頃から津田永忠の活躍が、蕃山にとって代わって岡山藩の中で目につくようになるのです。
 そんなことが、蕃山が京に出て行く、大きな理由と関わりがあったのかもしれません。

 このように歴史的に見ても、岡山藩では蕃山の影響が、失われ、若い永忠の活躍が、というより、光政侯の独自色の藩政へと移って行った時代だったのです。
 結局、蕃山と光政侯の勝負は、どう見ても光政侯のしたたかさに勝敗を上げざるを得ません。