私の町 吉備津

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岡山藩学校の開校式へ蕃山が

2010-02-08 09:47:19 | Weblog
 前に書いたのですが、岡山藩学校が、藩主光政侯の命令により、津田永忠や泉八右衛門等によって、西中山下に出来たのが寛文九年(1669年)です。
 井上通泰によると蕃山が岡山から京に上ったのは、寛文の初め頃だといされています。だから、此の藩学校が出来た寛文九年には、蕃山は岡山にはいなかったのです。当時は播磨の明石にいたのだそうです。しかし、光政侯は、敢て、明石にいた熊山蕃山を招聘して、開校式を行っています。
  
 明暦・寛文の頃には、藩政に対する光政侯と蕃山の考えは相当な違いがあった事は事実です。それも一つの原因となって、蕃山が岡山を致仕しています。でも、やはり藩の学校というか教育行政に関しては、この蕃山の功績に一目光政侯も置いていたのです。そこで、わざわざ、藩外の明石にいた蕃山を招聘したのです。

 そこで、ちょっくら、蕃山と岡山藩の教育の歴史につい、紐解いてみました。
 
 岡山に移封されてから、光政侯は以前から孔子を尊信されていたのですが、そんな関係から、是非、岡山に文武両道を学習させる場所をと思い「花畑」に学校の設置を思いつかれ、中江藤樹先生をお招きになったのですが、御断りになられます。でも、先生の門人の中から先生の子中江太右衛門を始め加世八兵衛なと数人を選んで岡山へ遣わされます。そのような経緯があって「花畠教場」が出来ます。寛永18年にです。

 この教場には「花畑会約」という生徒たちにための規則がありますが、これを作ったのが熊沢伯継先生だと言われていますが、この教場が出来た時は、まだ、伯継先生は、近江にいた時分ですから、多分、2度目に光政侯に仕えた時、「正保」の時代になってからではなっかたか思います。

 なお、岡山県通史で永山先生は、
 「寛文18年花畑の別邸を以て仮教場として教師を聘して藩士の子弟・・・・当時儒員の主なるものは熊沢蕃山。同弟、泉八右衛門。・・・・」
 と、書いているのですが、これはどうも怪しいのではないかと私は思います。
 それは、此の藩校の開校当時、まだ、蕃山先生は近江におられたのですから。そして、後に津田永忠と組んで活躍する蕃山先生の弟泉八右衛門は、まだ九州の松浦氏に仕えていた時代です。この人が光政侯に仕えるようになるのは、慶安3年の事です。、花畑の教場が出来て9年後になります????