「ほんの数回」と、思って始めたのですが、蕃山先生についても、また、多くの記事になりました。後2回ぐらいは?と思っていますのでお付き合いください。
先生の最晩年は、昨日書いた通りの「歌と琵琶を友とした隠遁の生活」であったのですが、その生涯を通した人となりを、最後に、まとめておきます。
先生は生まれつき身体肥満で、容貌は女子のようであったのだそうですが、16歳ごろから、自分が肥満なために、人と比較して、敏速な行動が出来にくいと気付きます。それでは一流の武士にはなれないだろうと思って、この肥満解消のための方策を4つ決め、実行に移したそうです。
まず、①です、「寝るに帯を解かず」、次に②です。「美味を食せず」、③番目は「酒を飲まず」です。
何故、「寝るに帯を解かず」が目標の①かはよく分かりませんが、多分、夜中に何時でも剣術の稽古ができるという心構えのためだったのではと思いますが。果たして肥満解消に結び付いたのでしょうか?
次の、②と③は誰でも考えつくことです。
肥満解消なら、これだけでもう十分だと思いますがでも、蕃山先生は、この他に、もう一つ、肥満解消のための目標を立てています。何だと思われますか。
それが、また、どうして、そんなことを考えつかれたのかは分からないのですが、ものの本にはこう書かれています。即ち、
④に「男女の人道を絶つ」を上げています。
男性として女性と性交をしないと言うのです。それも人生で一番血気盛んな年頃、16歳の時にです。それが果たして肥満解消のための格別な特効薬になると言うのでしょうか。医学の知識がないので、私には分かりませんが、先生が考え付かれた根拠は何でしたのでしょうか。それも10年間もお続けになったと言う事です。
この4つを基本として、この他に、夏の暑さの盛りに、敢て、野外に出て雲雀を打ったり、厳寒の冬には雪霜を踏み分けて山中に入ったりした自然を友とするような生活を心がけたと言われます。
そして、何時も木刀と草履を携え、人が寝静まった時に、人の誰もいない庭で、一人黙々と剣術の練習もしていたのだそうです。
そのような鍛錬のお陰でしょうが肥満が取れ、湯浅常山によれば
「了介は婦人好女の如く見えし」
と、あり、また、ある本によれば
「容姿は婀娜っぽく美婦人のようであった」
とも書かれています。
又、熊沢先言行録には
「20歳の頃、文を人に教えているときは童のようで、顔色はうるわしく、色気立つような美声で、人々を引き付けずにはおられないような美しさを持っておられ、怒った声などは聞いたことがなかった」
と、あります。
こんなものを総合してみると、先生は「其人の平生は、甚だ温潤にして愛敬あまりありて謙遜なる人なり」という事が出来ます。
先生の最晩年は、昨日書いた通りの「歌と琵琶を友とした隠遁の生活」であったのですが、その生涯を通した人となりを、最後に、まとめておきます。
先生は生まれつき身体肥満で、容貌は女子のようであったのだそうですが、16歳ごろから、自分が肥満なために、人と比較して、敏速な行動が出来にくいと気付きます。それでは一流の武士にはなれないだろうと思って、この肥満解消のための方策を4つ決め、実行に移したそうです。
まず、①です、「寝るに帯を解かず」、次に②です。「美味を食せず」、③番目は「酒を飲まず」です。
何故、「寝るに帯を解かず」が目標の①かはよく分かりませんが、多分、夜中に何時でも剣術の稽古ができるという心構えのためだったのではと思いますが。果たして肥満解消に結び付いたのでしょうか?
次の、②と③は誰でも考えつくことです。
肥満解消なら、これだけでもう十分だと思いますがでも、蕃山先生は、この他に、もう一つ、肥満解消のための目標を立てています。何だと思われますか。
それが、また、どうして、そんなことを考えつかれたのかは分からないのですが、ものの本にはこう書かれています。即ち、
④に「男女の人道を絶つ」を上げています。
男性として女性と性交をしないと言うのです。それも人生で一番血気盛んな年頃、16歳の時にです。それが果たして肥満解消のための格別な特効薬になると言うのでしょうか。医学の知識がないので、私には分かりませんが、先生が考え付かれた根拠は何でしたのでしょうか。それも10年間もお続けになったと言う事です。
この4つを基本として、この他に、夏の暑さの盛りに、敢て、野外に出て雲雀を打ったり、厳寒の冬には雪霜を踏み分けて山中に入ったりした自然を友とするような生活を心がけたと言われます。
そして、何時も木刀と草履を携え、人が寝静まった時に、人の誰もいない庭で、一人黙々と剣術の練習もしていたのだそうです。
そのような鍛錬のお陰でしょうが肥満が取れ、湯浅常山によれば
「了介は婦人好女の如く見えし」
と、あり、また、ある本によれば
「容姿は婀娜っぽく美婦人のようであった」
とも書かれています。
又、熊沢先言行録には
「20歳の頃、文を人に教えているときは童のようで、顔色はうるわしく、色気立つような美声で、人々を引き付けずにはおられないような美しさを持っておられ、怒った声などは聞いたことがなかった」
と、あります。
こんなものを総合してみると、先生は「其人の平生は、甚だ温潤にして愛敬あまりありて謙遜なる人なり」という事が出来ます。
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