私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

蕃山了介と名乗る

2010-02-05 12:21:49 | Weblog
 そんな光政侯との間に繰り広げられた心理戦争に勝利したと伯継先生は、明暦3年正月に、和気郡蕃山(しげやま)村に閑居します。この村は元寺口村と言っていたのですが、先生の采邑でしたから、この時に「蕃山村」にその名前を変えたのだそうです。

 この蕃山村と付けたその名前の由来も言い伝わっております。それによりますと
 
 「風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ 砕けてものを 思う頃かな」という百人一首の歌人に「源重行」という人がいますが、この人が詠んだ歌で、新古今集に、
     つくば山はやましげ山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり
 という歌がありますが、この歌にある「繁山」から「しげ山」、そうです、その「しげ」を「蕃」という字に置き換えて村名にしたのだそうです。
 
 この歌には、我が恋の為には、どんな苦労をしてでも、これが葉山です。また、どんな邪魔があろうとも、これがしげ山です。必ず、その目的は達成しますよという、強い不撓不屈の精神が込められているのだそうです。

 寺口村をわざわざ蕃山村に変えて、そこへ隠居したというのは、考えようによると、今は自分は隠居したが、いずれ、必ず、捲土重来して岡山藩政の一翼を担ってみせるという強い意欲が十分に見えるように私には思えて仕方ありません。
 そして、また、自分の名前も蕃山了介と名乗るようにもなります。名前からも先生の、そんな意欲が伺われます。39歳ですもの。これからが人生の重要な部分になる時ですから、おいそれと、一時的には撤退するが、周りの藩の重臣たちには決して負けはしないという思いはあったと思います。

 この先生の蕃山村への引退については、「伯継。殺すべし」という風評が藩内のあちらこちらから巻き上がるように起こっていたのを察して、藩主光政侯が先生をわざわざ岡山から退かしたのだという説もあるようですが???
 若しこの退却させたという説が正しいとするなら、私の心理戦争なんて、てんで話にもなんにもあったものではないのですが。

 このような伯継と光政侯に関する記事は仰止録にも、まして有斐録にも出ていません。念のために。