貞享2年(1685年)松平信之侯が老中になり古河に国替を命じられます。しかし、その後を受けて郡山藩主になられた本多忠平侯との関係で、蕃山先生は、そのまま郡山に留まっていたのです。しかし、貞享4年の8月に、一応は、幕府の命令によって、松平侯の古河に移られています。
その理由はよくは分からないのですが、噂によると、その前年に松平信之侯が亡くなられ、その子忠之侯が藩主になられています。この忠之侯の立っての望みという事で来られたとも、将軍綱吉公が「蕃山を江戸に呼べ」と強く要望したためであるとか、いろいろな話が残っているのだそうです。
まあ、いかなる理由かははっきりしないのですが、もう69歳にもなった蕃山先生は岡山を出てから6回目の転居になります。
なお、古河に先生が移られる前ですが、先生を師と仰いだ保科正之、酒井忠清、板倉重矩、父母や長男の継明、妻のイチまでも、更に池田光政も、堀田正俊、松平信之も相次いでこの世から去っています。
その理由はよくは分からないのですが、噂によると、その前年に松平信之侯が亡くなられ、その子忠之侯が藩主になられています。この忠之侯の立っての望みという事で来られたとも、将軍綱吉公が「蕃山を江戸に呼べ」と強く要望したためであるとか、いろいろな話が残っているのだそうです。
まあ、いかなる理由かははっきりしないのですが、もう69歳にもなった蕃山先生は岡山を出てから6回目の転居になります。
なお、古河に先生が移られる前ですが、先生を師と仰いだ保科正之、酒井忠清、板倉重矩、父母や長男の継明、妻のイチまでも、更に池田光政も、堀田正俊、松平信之も相次いでこの世から去っています。