私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉野から山城国鹿背山へ、また、明石へ

2010-02-11 10:01:07 | Weblog
   この春は よしのの山の やま人と 
                なりてこそしれ 花のいろ香を
 
 と、いう歌を作って、吉野の山人となる事によって桜の本当の美しさを知ることが出来た、ああ、これからもずーうと吉野に住んで花守りになろうかと、先生は思っていたはずです。寛文7年の春です。それがどんな理由かわ分からないのですが、突然に、吉野から山城国鹿背山に移り住みます。
 その理由を、井上通泰は、例の由比正雪事件後、幕府による浪人監視が厳しくなっった結果、先生に対してもあらぬ疑いを懸けられたからではないかというのです。
 承応・明暦・万治と18年も経っていたにも関わらず、寛文9年の年に、蕃山の行動に幕府は疑いの目をかけていたのです。よほど、この由井正雪の幕府転覆計画事件に、幕府は右往左往したかという証にもなります。又それは、ひっくり返して言うと、この18年間というのは、幕府にとっては、これといって取り上げるほどの大事件も何もない、平穏無事な平和な世の中であったと言う事です。
 この間の明暦3年に、林羅山は死去していますが、彼ら一派の説く、幕府の学問でもあった朱氏学と、蕃山等の陽明学とが事あるごとに対立してい、お互いに相入れない関係になっていました。彼らの「陽明学憎くし」という思いが、その頂にいた蕃山に向けられ、攻撃をもろに受けられれるのです。
 当時の幕閣の中には熊沢蕃山を尊信する人、大老酒井忠清、老中板倉重矩、松平信之などが居たにも関わらず、人口に扉を立てることが難くなって、結局、この人たちが諮って、信之の城下明石の泰山寺に居寓させるようにしたのだそうです。寛文9年の事でした。その時、名も蕃山了介から「息游軒」に変えています。
 
 この明石の時代に読んだ蕃山の歌があります。
    “見る人の心からこそ山さとのうきよの外の月はすむらめ”
 です。

 空に懸かっている月は浮世の外にいてなんて美しいのであろう。あんなに、何物にもとらわれない世界に住んでみたいものだと言うぐらいの意味になると思います。すむは住むと清むのかけ言葉です。やるせない浮世を慮りの蕃山の心境です。
 

 この年に備前岡山藩に藩学校が出来きます。寛文9年7月25日です。光政侯61歳、蕃山先生51歳でした。
 幕府から睨まれ、明石に蟄居させられていた蕃山ではあったのですが、敢て、光政侯は藩学校の開校式に招聘しています。藩政から引退して池田綱政侯に藩主の座を譲っていたとはいえ、人間の大きさというか他の何物をも恐れないで自らの信念を貫き通す光政侯の真骨頂だと思います。他の誰でもが真似することが出来ないような出来事だったのです。