夏枯れの庭にはまだこの様な花が暑さにもめげず咲いている。
太平洋戦争が終わって約70年経とうとしている今、8月を迎えるとあの戦争終結の日を思い出す。
教会でも「平和主日」の礼拝が持たれている。3年前から私の教会では礼拝後の愛餐会(昼食)で戦争の体験談を聞く事を始めるようになった。一昨日の日曜日3回目、その話しをする番が私に回って来た。
3週間前私に話して欲しいと頼まれた時、私にはとても無理と固辞したのだが押し切られてしまい渋々お受けしたのだった。
何分70年前の事であるから記憶が不確かな事もあり、それ以上に大勢の人前で話しをする事が私には不得手であったから、この3週間気持が落ち着かなかった。
戦争が勃発したのは私が学校を卒業する前の18歳の時であったから、終戦までの2年半の体験は概ね忘れる事は出来ない。
一人函南で働いていた父の世話をした事、一歳に満たない甥の世話を函南で一人でした事、家族全員が疎開し函南で過ごすようになり甥の世話から解放された後、勤めだし約一年後会社で終戦を迎え終戦宣言の天皇陛下のお言葉を拝聴した事などなど、そしてそれからの約70年に亘る私の人生も掻い摘んでお話しさせてもらったのであった。
多くの方が亡くなられたり、悲惨な体験をされた方々の事を思うと、函南で空襲にも遭わず安全に過ごすことの出来た私は幸せであった。多くの犠牲者の上に思いを馳せ、再びこの様な悲惨な戦争が起きる事のない様祈りたい。
皆さん熱心に私の話しを聞いて下さった事に心から感謝すると共に、3週間の落ち着かない気持から解放され、正直の処今ホッとした気持ちでいる私である。
心配事もなくなり、気分も晴れ晴れと11日から19日まで軽井沢で家族皆と涼しく愉しく過ごして来ます。
戦後、70年も経つと体験者が少なくなるので、戦争を知らない人にお話をしていただくのは、貴重なことと思います。
あの当時北海道で頑張っていたしたのですね。
前にブログで赤ちゃんの時にお世話した甥御さんが登場したことがありましたが、何か事情があったのですね。
北海道で終戦をお迎えになり、戦後に東京の生活が始まったのですね。
続きのお話を聞きたくなっています。
自伝をお書きになられたらいかがでしょう。
是非、読みたいと思います。
今は 解放感と 肩の荷を下ろした気分♪
良く解ります!!
私も その場で傾聴したかったなぁ~~・・・
んで・・そろそろ夏恒例の 八十路一家のバケーションですね♪
次男さんにも よろしくお伝えくださいねぇ~~♪
最近は、もう経験者が少なくなっているので、良いことをされました。
私は当時中学生でしたが、都心に居て、いろいろ空襲も経験しました。
しかし、平和が長く続き、もう記憶も失いかけています。
私も会場でお聞きしたかったわ~
終戦の年、女学生の私も、三鷹の中島飛行機に動員されました。
警戒警報で女子学生は逃げ出したのですが、大学生は
空襲警報でも残って、爆撃にあい、多くの学生さんが亡くなりました。
焼夷弾の落ちてくる音、機銃掃射の音、忘れられません。
今年も軽井沢で御一族充分お楽しみ下さい
あの頃を思うと現在平和な日本である事を有難く思う日々です。
北海道ではなく、静岡県の函南と言う処でした。
私「80年のあゆみ」という自伝をパソコンで書き小冊にしたものを、確か445さんにお読み頂いた記憶があるのですけれど、違ったでしょうか。其処に80年の全てが書かれてあるのですが。
私如き者の人生を知りたいと思って下さる445さんのお気持ちを本当に有難く思います。
気分爽快で次なる軽井沢に思いはまっしぐらに向っています。
昨日・今日と凌ぎ易いのでこれが続けば避暑の意味がないかなとは思いますが、一族で愉しく過ごして来ます。
次男に「セシルさんからよろしく」と伝えます。
殆どが前半に来ますので後半に来る次男は皆には会えず長女と私との3人だけで過ごすことになりそうです。次男仕方なく「のんびり過ごそうよね」って言っていました。私の家まで一緒に帰って来ますので、沢山の荷物下ろしをしてくれるでしょうから助かります。
愈々明後日早朝5時の出発です。行って来ま~す。
マークスさまはも怖い体験をなさったお一人なのですね。私は怖さも悲惨さも全く味わいませんでしたが、あの2年半は決して忘れられません。今ではその時の苦労が懐かしい思い出となって心に残っています。
多くの方の犠牲があってこそ現在の日本の平和がある事を心に刻み、感謝し、今後も更なる平和が保たれる様心から願っています。
思えば本当に難儀な時代だったのですね。
多くの犠牲者の上に成り立っている今の日本、何時までも平和であって欲しいものです。
明後日軽井沢に行って来ます。涼しく愉しい時を思いっきり過ごしたいと思います。
その後の「軽井沢日記」の作成が又一仕事ですけれど!!
暫くお目に掛かれませんけれど、どうかお体お大事になさって下さいね。