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ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

教育再生会議はいじめを止められない

2006-12-01 | ちょっと一言
教育再生会議とかいう何かよくわからない組織がいじめ問題について提言をしたという。曰く、いじめは絶対に許さない。曰く、指導、懲戒を明確にし毅然と対応する。いじめを放置した教員を処分。などなど。教師にも生徒にも、とにかく懲罰をつよくすることで対応しようということのようだ。

 いじめた生徒の出席停止という提言はやめたらしいが、とにかく厳罰化によって事態を治めようとする姿勢が露骨だ。これでいじめが止むと本気で思っているのだろうか。ますますいじめが陰湿化し地下に隠れるだけで、きっと自殺する児童や教師はもっともっと増えるだろう。

 子供の間にいじめが蔓延し始めたのは、大人社会の模倣でしかない。政治の世界が持たざるものをいじめる社会を作り上げ、いじめることを当たり前にしてきたのじゃないか。それで子供にいじめたら厳罰だと言う。ちゃんちゃらおかしい。小泉改革がいじめを増やしたと認めるべきだ。

 小泉改革を引き継ぐと宣言した安倍内閣は、当然いじめを助長したことになる。自分がやっていることをいじめに回った子供を厳罰に処することでごまかそうとしている。山谷えり子座長は安倍首相の子飼いらしいから、そんなことはつゆほども考えていないだろう。この人は常に権力にすり寄ることでここまで成り上がってきたのだから、権力が嫌うことなど考えられない体質になってしまっている。

 いじめを無くすもっとも確実で早い方法は、教育基本法の精神を今の教育に取り戻すことだ。政治が教育の内容に口を出さないこと、教師がもっとのびのびと自由に教育に専念できるようにすること。それが今の教育基本法だ。それを改悪しようとしているのが安倍内閣。改悪された新教育基本法の下では、いじめはきっと増えるだろう。教師同士でもいじめが始まる。日本の教育はめちゃくちゃになる。目に見えるようだ。

 いますぐ教育基本法の改悪をやめよう。自民党の教育基本法の下では、子供を学校にやることは怖ろしい。子供を作ることはもうやめた方が良い。

世界史の勉強をしよう

2006-11-02 | ちょっと一言
必修の世界史の授業をしないで受験のための教育をしていたとして、数万にも上る高校生が卒業できなくなりそうだということだ。そのために補習授業をどうすればいいかという報道がマスコミやテレビ・ラジオで騒々しい。

 今日のニュースでは、必要な授業時間のうちの70時間ほどは「負担」を軽減してもよいと文部科学省が通知をしたとか。いったい文部科学省は何を考えているのだろうか。「負担」を軽減だって?世界史を勉強するのは、高校生の権利ではないか。「負担」ではないはず。ちゃんと世界史を教えろ、というのが生徒の言い分のはずだ。しかし、生徒も父兄も世界史の授業を受けることを「負担」だと考えているらしい。

 どうやら必修の世界史をきちんと教えないで、ごまかしで卒業させているという現象は今年に限ったことではないようだ。いままでもかなりそう言うごまかしが通用してきたらしい。それで思いついた。最近の若者の中に偏狭なナショナリズムに傾斜するものが増えてきているのは、世界史の勉強をしていないからではないのか。世界の歴史を学び、その中での日本がやったこと、やるべきことを学ぶという姿勢が無くなってきているのではないか。中国・韓国やそのほかのアジアの国の人々がどのような歴史を持ち、どのような経験をしてきているかを知らないで、日本だけが「美しい国」の歴史を持っているという狭い知識の若者が増えてきているのではないか。

 このような世界史の軽視は、高校の予備校化だけの問題ではないかもしれない。ひょっとしたら政府や文部科学省や教育委員会が、世界史を勉強させないようにしているのかもしれない。少なくともアジアの国々からみると、そう見えてしまう。

 これは私の勝手な思いこみではなさそうだ。歴史を無視し、改ざんし、日本中心の手前勝手な歴史を教科書にしようという運動が日本には存在する。しかも都知事や首相までがその運動を鼓舞している。そのような日本で、高校生に世界史を学ばせない傾向が存在するというニュースは、日本の姿勢を疑わせる。過去に世界史的な被害を日本から受けたアジアの国の人々は、そのような日本に脅威を抱くだろう。北朝鮮の核実験よりも、日本のそのようなナショナリズムに脅威をもつ。

 若者よ。世界史をもっと勉強しよう。そして日本の進路を誤り無いものとしよう。世界の歴史をしっかりと見つめ、世界の潮流を見失わないように。世界の中の日本をしっかり把握しよう。

いじめがあって当たり前だ

2006-10-29 | ちょっと一言
各地でいじめを原因とする自殺が報じられている。幼い子供たちが自ら命を絶つというのは、哀しいことだ。教師がいじめに関与していたという驚くようなことも報道されている。まさに、教育の荒廃ここに極まれりという感じで報道がされている。

 文部科学省には過去7年間の間、いじめを原因とする自殺はゼロであるそうだ。しかし、多くの人が感じるようにこの統計はおそらく嘘であろう。もっとも文部科学省の役人がデータを改ざんしたと言うわけではない。各地の教育委員会からの報告を集計したらゼロだったと言うことであろう。では、なぜそのような報告になるのだろうか。

 いじめによる自殺などはあってはいけない、そのようなものがあったら教育委員会の責任問題になる、まして教師によるいじめなどはありえない、という気持ち(いや圧力)があったと考える方が自然だ。教育委員会ではいじめによる自殺があったとは認識しないような構造になっているのだろう。

 では何が問題なのか。いじめはあってはならないという考え方がおかしいのではないか。マスコミの報道もそのような書き方がほとんどすべてだ。だから学校長は自分の学校でいじめを無くすことに一生懸命になるし、いじめがあったらなんとかなかったことにしたがる。

 私はいじめを無くすことに教師や校長や教育委員会が必死になる必要はないと思う。いじめはどうやっても無くならない。何故か。親たちが生きているこの社会が今はいじめだらけだからだ。会社では年寄りは早くやめろといじめられる。窓際族というのは立派ないじめだ。失業しても生活保護をもらおうとすると窓口の役人にいじめられる。さらに医療費や生活保護費などの切り下げが行われる。政府による弱いものいじめが堂々と行われている。そんな社会で、子供たちにいじめをするなとどの口で言えるのか。

 そもそもこのいじめを公然と始めたのは、国鉄民営化を旗印に反対する組合員を隔離して草むしりなどの不要な労働を強制した中曽根内閣の政策に端を発する。そのあと、このような社会的ないじめが大手を振って登場してきた。政府が率先しての不当労働行為に対して、いまだに1047名の人たちが職場復帰を求めて闘っている。思えば、この不当な首切りを日本社会が認めてしまったことが、今のいじめ社会を招いたと言える。

 いじめを無くすな、いじめはけしからん、という言い方はもうやめよう。いじめはあって当たり前の時代だ。

 では、学校ではどうすればいいのか。以上のことを考えれば、学校でやることは決まっているではないか。教育を担う人は、いじめに負けない人を育てることだ。いじめに遭っている子供を見つけたら、いっしょにいじめる人と闘うことだ。今、学校にも社会にも必要なものは、連帯のこころ、団結のこころではないか。

若者の力無し

2006-08-24 | ちょっと一言
最近、空港に限らずいろんなところでころが付いた荷物をゴロゴロと引きずって歩いている若い人を多く見かける。たしかに、大きい荷物を持って移動するのは大変だけれど、人混みの中をゴロゴロと後ろに引きずって歩くのはやめて欲しい。

 自分は気が付かないのかもしれないけど、あれくらい人に迷惑をかけることはない。閑散としたところならそれも許されるけど、混雑したところを平気な顔でゴロゴロゴロ。やめてくれ。荷物はちゃんと手でぶら下げて歩くべきだ。重くて腕がちぎれそうになったりしたら、少しは転がすことも許されるだろうけど。

 そういえば、近頃の若者は腕に力がなくなったようだ。先日もカヌーを車に積もうと20代の若者(男)に手伝ってもらったが、私がちょっと腕の力を抜いて彼にまかせたら、持ちきれなくて落とし車をへこませてしまった。信じられないほど力がない。

 ゴロゴロ荷物を転がし引きずって歩くのは、彼らの腕力がそこまでなくなったと言うことなのだろうか。それが原因ではあるまい。原因は逆だ。荷物を頑張って持つと言うことさえしなくなって楽をするようになった若者の腕力が衰えるのは当然だろう。若い時はもっと鍛えるべきだ。腕力が強そうな男がゴロゴロゾロゾロ荷物を引きずって歩いているのは、滑稽でさえある。

 みんな、荷物は腕で提げて歩こう。周りの人の迷惑にももっと気づこう。小泉さん。

北の海で何が・・・

2006-08-21 | ちょっと一言
マスコミの悪い癖が始まった。根室の漁船がロシアの国境警備隊に銃撃されて一人が死亡、3人が拘束されている事に対する報道姿勢だ。

 この事件はどうみても、カニの密漁事件だ。根室中央漁協の組合長が、日露の境界ラインを超えて密漁をした。それを密漁を取り締まっているロシアの警備隊に見つかり、警備隊のボートに体当たりして逃げようとした。それが事実だ。

 ところが、マスコミの報道はこれらの事実はベタ記事程度にし、ロシアが殺した、3人を返せ、などと偏狭なナショナリズムをあおる事しかしていない。

 日本政府がロシアに抗議しているのは、あくまで日本政府の立場として「北方四島とその周辺海域」は日本領土であるという建前から抗議しているのである。しかし、日本政府はロシアの実効支配を認めざるを得ない。それが歴史的に正しいかどうかとは別に。

 マスコミはそれを知っていながら、大衆のナショナリズムをあおることで商業主義的な立場をとっているのだろう。何が正しいかではなく、どうすれば儲かるか、が彼らのスタンスだ。

 しかし、それによってアジアの人々やロシアを含めた周辺国と日本の軋轢が強まり、結局は日本外交を困難に追いやるだけの報道ではないか。マスコミはもっと公平な目を持つべきだ。日本政府が言う事・やる事は何でも正しいという姿勢は、サルでもできる。それはマスコミの使命を捨て去る事ではないか。

馬鹿と嘘つき

2006-05-24 | ちょっと一言
ちょっとした頭の体操

「クレタのエピメニデスが、すべてのクレタ人は嘘つきだと言っていますが、クレタ人である彼がそう言っているのだから、これは本当のこと?」

これはばかげたことかも。

それでは、これは?

「エピメニデスが嘘つきだと考えているものは、クレタ人は嘘つきではないと思わざるを得ないが、クレタ人はクレタ人を信じてはいない。故にクレタ人は誰もエピメニデスが嘘つきだとは思わない?」

これもばかげている?

「この場合はばかげているのですか、どうですか」
「それはあなたが考えることです。私は貴方に馬鹿を見分けることは難しいといったでしょ?馬鹿でもノーベル賞は取れるのです」(ウンベルト・エーコ<フーコーの振り子>より)

東京都教委のならずものたち

2006-04-15 | ちょっと一言
東京都教育委員会が、職員会議で「採決」などをすることを禁止するという通達を出したそうだ。さらに職員会議で教育や学校の運営について議論することも許さないとした。東京都教育委員会はほんとうにならず者の集まりとしか思えない。まるでやくざの集団だ。

 民主主義を教えるべき学校で、民主主義を否定する。教師の行動のあらゆることに口を出し、縛り付け、考えることを許さない。東京都教育委員会は、教育のことを考えていないことがよく分かる。教育基本法には権力が教育に不当な介入をすることを禁じている。彼らには憲法も教育基本法も守る気持ちはさらさら無いらしい。これこそかれらがならず者集団であることの証明だ。

 なぜ東京都教育委員会がこのようなやくざ集団になったのか。都民の子供たちがこのような集団によって教育されていると思うと、本当に恐ろしい。そもそも、石原慎太郎なるやくざっぽい人間が知事になったことが、問題なのだ。軽い気持ちで彼に票を入れた人は、深刻に反省すべきだろう。石原慎太郎が教育長にとんでもない人物を据え、彼が自分の気に入ったものを集めた結果が、いまの東京都教委である。日の丸を拝み、君が代を歌わせるために作った教育委員会だ。

 今日の朝日新聞と毎日新聞が社説でこの通達のおかしさを指摘しているが、どちらも深刻と言うよりはお笑いだというような書き方でこの問題の深刻さをごまかしているように思える。読売などの新聞とも言えない新聞は、もとより無視を決め込んでいる。報道もしない。

 一日も早く石原慎太郎を東京都の知事から引き下ろしたい。彼は、アジアのみならず世界中の国の物笑いだ。

役人と責任と自然とのつきあい

2006-04-07 | ちょっと一言
今日のニュースに裁判所が青森県と国に1億4千5百万円の支払いを命じたというのがある。奥入瀬渓流の遊歩道でブナの枝が落ちてきて当たったために下半身麻痺になった女性が損害賠償を求めたものだ。たしかにこの女性は気の毒だ。しかし、ちょっとちがうんじゃないか。この判決はおかしい。

 判決は「事故発生は予見可能で、現場は落木の危険があったのに対策が講じられていなかった」と述べた。遊歩道はたしかに県や国が整備したものだろう。しかしそれは自然の林の中を歩きやすいように道をつけたもので、林は自然林だ。その中を歩く以上、落木の危険があることは当然のことである。事故発生は予見可能であるのは、国や県だけでなく、そこを歩く人にも当てはまる。自然の中に自分がいるという心の備えがなかったのではないか。

 この判決でさらに国や県が遊歩道の周辺の木を切り倒すことを恐れる。数年前北海道大学のポプラ並木を大学当局が切り倒したことを想い出す。当局は、古くなったポプラがいつ倒れるか分からない。倒れたら被害者から責任を追及されるのが恐いと考えたのだろう。食堂付近のポプラの群れを切り倒してしまった。また、有名なポプラ並木は入り口に立入禁止の看板を立ててしまった。一昨年の台風でたくさんのポプラが倒れてしまったので、大学当局はそれみたことかと喜んだに違いない。しかし、これもおかしい。台風が吹き荒れるような時には、だれでもポプラの木が倒れる可能性を想い出す。そんなときには並木のそばを通る時は慎重になるのが当たり前だ。大学が植えているからいつでもなにもおこらないと考える方がおかしい。

 奥入瀬の事故にもどろう。国や県に責任があるのは、本当は遊歩道のまわりの木を切らなかったからではないのだ。そうではなく、遊歩道をコンクリートで固め、まるで都会を歩くような心持ちで奥入瀬渓谷を歩かせること、そのことに責任があるのだ。自然の中を歩くには、それなりの心がまえと、それなりの服装や足回りの準備が必要なのだ。ハイヒールとスカートをはいて、デパートを歩くように歩かせることこそが犯罪的なのだ。そこを裁判所もまったくわかっていない。

 また、この女性もわかっていない。彼女は下半身不随になった気の毒な人だが、彼女が訴えるべきなのは、落木があるかもしれないと分かっていながら木を切らなかったためではなく、障害者が生きにくい世の中を訴えることなのだ。障害者になっても明るく生きていける保障とそのような世の中を望むべきなのだ。

 以前からこういう勘違いが気になって仕方なかった。川や池に子供が落ちておぼれてしまった時に、必ず彼らの親は柵を作っていなかった川や池の管理者の責任を問う。川や池とのつきあい方を教えなかった自分の責任を問うことはない。本来川に柵なんかはないのが当たり前なのだ。ところがいたる所の川や池に柵ができ、ますます子供たちは川や池とのつきあい方を学ぶ機会を失ってしまい、すさんだ心になったり、どこかの川や池で命を失ったりする。自然とのつきあいをこそ教えるべきなのだ。そのおかげで、いたるところの川はコンクリートで固められ、柵で隔てられ、川で遊ぶなと言う看板で脅される。川は遊ぶところなのだ。公園や校庭ではなく、自然とマジでつきあうところなのだ。命をかけて遊ぶところなのだ。子供にとってそれが何よりの生きる自信に繋がり、自然を愛する心をつくる。

 実は数日前に、このようなことがあった。4月の下旬に近くの森林公園で野草の観察をしようと仲間たちに呼びかけた。すると、森林公園の管理をしている団体から、公園は5月1日から開園だから、そのまえにそのような催しをするのは、なにかあっても責任がとれないから困る、ついては、責任者の名前、参加者のリスト、催しの目的、方法、などなどを事前に提出しろといってきた。もちろん責任をとるから、というつもりでそんなことを言ってきたのではない。責任をとりたくないからできればやめて欲しいと言うことを言外に言ってきたのだ。その役人的な言い方を聞いていて、私は公園のブランコから落ちて怪我をしても、公園の管理者を訴える親や、その訴えを認めてしまう裁判所の判決を思いだしてしまった。

 奥入瀬の判決を聞いてこの管理団体はきっと森林公園の木を切り始めるだろう。森林公園とは一体なんだろう?都市型公園では味わえない自然を味わうための公園ではないか。そこで木が落ちてきたって当たり前のことでしかない。森や林の木は生きているのだから、枝が枯れたら落ちるだろうし、何十年かしたら木は寿命が来て倒れる。木が倒れることによる森林更新もあるのだ。それが当たり前の自然なのだ。

 もっと子供たちを自然と遊ばせよう。子供と自然を隔てている看板、柵、コンクリートなどをなくそう。危険なところは立ち入り禁止にするのではなく、自然の危険さをきちんと教えて自然の中に入らせよう。100万人に一人くらいそれで死ぬ子がいてもそれは仕方ないことなのだ。

本当に不安な社会なのか?

2006-03-04 | ちょっと一言
恐ろしい世の中になった。朝日新聞によると、学童らへの犯罪が増えていると思い、不安を持っている人が80%近いらしい。また、児童に位置情報をおしえるICチップをつけてどこにいるのかを常に追跡できるようにすることを、過剰な反応だと思わない人も57%もいるらしい。恐ろしい世の中だ。

 しかし、もっと問題なのは、マスメディアはなぜか児童への犯罪が昔に比べて減っているという事実を明らかにしないことだ。これはなぜなのだろう。朝日新聞も、上の記事を書いても、実際に犯罪が増えているかどうかを一行も書いていない。犯罪が減少しているのに人々の不安感が増えているのは、マスメディアが上に書いたような不安をあおる記事を書くせいだ。

 また、不安感が増えることによってうれしい人がいることも事実だ。国民の安全に関する検討委員会の責任者がガードマン会社の最高顧問が勤めているということをどう考えたらいいのだろうか。この検討会は、きっともっともっと警備を強化することで国民の安全を守るべきだ、という結論を出すに違いにない。もっと本質的なことは議論しないで。同じように、仮想敵国を作り上げて「脅威だ」と言いつのる人は、きっと税金を軍事費にもっと使ってほしいと思っている人だろう。警備会社は不安な社会はうれしいことだし、兵器産業は戦争をして欲しいのだ。

飛行機の座席は苦痛

2005-11-14 | ちょっと一言
昨日、空港のことを書いたので、ついでに飛行機のことを書こう。

 飛行機の座席は、どうも私には快適とは言い難い。肩がこって仕方がない。なぜかというと、座席の頭が当たるところが枕のように前に突き出しているので、座席の背をまっすぐにしていると頭がどうしても前に押されて下を向かざるを得ないようになる。この姿勢で長い時間いると肩がこる。

 なぜこんな座席なのか、昔から私は不思議でしかたない。頭が当たるところが枕のように出っ張っているのは、たしかに座席が大きくリクライニングした場合は枕になって具合が良い。しかし、最近の飛行機の座席はほとんどリクライニングできない。後ろに倒せるのはせいぜい20度くらいではないか。その程度なら枕はかえって邪魔でしかない。しかも着陸の前後は座席の背は、まっすぐにしなければならない。

 飛行機は客室乗務員の洗練されたサービスが好きなのだが、この座席のことを考えるとどうしても苦痛になる。とくにMD70やMD90などの機種はまったく苦痛としか思えない。エアバス300系統の座席はまあまあ何とかなるのだが。Jシートならもう少し楽かもしれないと思って、MD90でJシートに座ってみた。すると、この苦痛度はもっとひどかった。このときは1000円よけいに払ってますます苦しい思いをさせられ、乗っている時間中、やめときゃよかったと後悔ばかりだった。エアバス300系統のJシートはまだましだが。

 頭の部分はむしろ引っ込んでいて欲しいくらいだ。少し頭が後ろに倒れるくらいになった方が、飛行中よく眠れる。なぜこんな座席になっているのだろうか。一度座席の下に毛布を敷き込んで、身体をもっと持ち上げてみたら、枕の上に頭が行くと、快適な座席になることに気がついた。ということは、この座席にはわたしの座高が低すぎると言うことなのか。どうやらこれらの飛行機の座席は座高の高いアメリカ人やヨーロッパ人向きに作られているらしい。日本人も最近は座高の高い若者が増えてきたらしいからこれでも良いのかもしれないが、昔風の日本人である私にはとてもつらい。JALもANAももっと考えて欲しいものだ。

 ちなみに新幹線の座席の枕もやはり少し前に突き出しているが、飛行機と比べるとずっと快適だ。しかも新幹線の座席はかなり後ろに倒すことができる。遠くでない時はなるべく飛行機をやめて鉄道を使おう。そのほうがエネルギーの節約にもなるし、環境にも優しい。